第32話 天使のいた場所

 降り立ったホームから何年かぶりの海を前にして、カイは思ったことをそのままに口に出した。

「なんで来ないでいたんだろうな、ずっと」

「何て?」

 モノローグとして済んでしまうはずだった言葉を、カンナはすんでのところで聞き逃さなかった。

「海、随分長い間来てなかったんだ」

「そうなの? 恋人とかと来たりしてなかったの? 夏とか」

「夏場に恋人いたことほとんどないからな」

 開放感を感じさせる季節が苦手な子たちばかりだった、とかぼんやり思い返す。カイのかつての恋人たちは、人混みを苦手とする者が多かったし、実際の美醜にかかわらず、人前で素肌を晒することに抵抗を抱いている者も少なくなかった。人肌恋しくなる季節に出逢って、あたたかくなる頃には別れることがほとんどだった。

「じゃあ友だちとは?」

「野郎だけで海、行くと思うか?」

「行くんじゃないの? カイといたらナンパ上手くいきそう」

「んなことしねえよ」

「育ち良いもんねー」

「それ言い続けるつもりかよ……」

「褒めてるんだけどなー、嫌なら言うのやめとく」

 ほら、行くよとカンナが促す。駅を出てすぐ、浜辺に続く石階段があった。一段一段幅も高さも違うそれを下りながら、カイは幼い頃のことを思い出した。


 堅苦しく生真面目だったけれど、カイの両親は彼をよく海に連れていった。海は彼の目に自由で開放的な場所として映って、赤間家は不似合いに感じられた。両親はいつも人気の少ない、ただの浜辺を選んだ。海の家もなければ、うち棄てられた花火の燃え殻や熱で縮んだガラスの欠片もない。それでも、彼は落ち着かない気分でいた。見るに耐えない母のビキニと、父のビール腹を強く脳裏に灼き付けながら、赤間少年は数年のうちに海近くの町から引っ越した。


 砂浜に下り立つと、カイは自分と海とが同じ目線に立ったように感じた。ほんの少し前までは景色以上の意味を持たなかったそこは、カイに何かを訴えかけていた。

「俺の名前――カイってのは、海って書くんだ」

 口をついて出たのは、自分でも驚くような、自分についての話だった。

「そういえば、漢字聞いたことなかったね。LINNEも結構してるはずなのに、名前を書くようなことないから気付かなかったのかな」

「ユーザーネームには赤間カイってカタカナで書いてるしな」

 どうしてそんなことを語りはじめたのかと思いながらも、彼は自分が何年も抱えてきたわだかまりが少しずつとけていくような感覚を味わっていた。

「小学生の時、うみちゃんうみちゃんって散々からかわれて、それ以来漢字で書くのが嫌になって、正式な書類以外はほとんどカタカナで押し通してた」

「ねえ、カイ」

 カンナはくるっと彼の方を向いた。今はあまり、美羽と似ているということは意識の上に上がってこなかった。

「小学校の時の写真見せて」

「は?」

 カイは目をきゅっと細めて、唐突な発言に疑問の念を示した。

「多分ね、幼少時のカイは女の子も顔負けのカワイイ顔だったと思うのよ。ほら、イケメン俳優の子役時代って天使みたいな子いるじゃん。女の子の服着せちゃいたいくらいの。カイはそういうのだったんじゃないかなぁって思って。だから、ね? 写真見せて」

「自分で言っといてあれなんだが、何か真面目な話したのがすごく馬鹿らしく思えるな……」

「カイの実家ってどこなの?」

「関東のどっかだ」

「前のカイなら、『お前俺の実家まで入り浸る気かよ』とか言いそうなのに、良いねぇ、成長だねぇ」

 カイの声真似をしているつもりなのか、変に低い声を出してみせるカンナの姿は滑稽で、そして可愛らしく映った。まだこんな些細なことに愛おしさを覚えることがあるのかと、カイは自分の未熟さをこっぱずかしく、それでいて好ましく受け止めた。

「ま、普通に考えて親がいるところにお前が行くとは到底思えないしな」

「分かんないよー? カンナちゃんはカイのところに永久就職しちゃうかもしんない。働かずに毎日ごろごろ、なんて素晴らしい生活!」

「誰がそんな金食い虫引き取ってやるかよ」

 そう口にしながらも、声はともかくカンナの口真似はそこそこカイの特徴を捉えているなと思わざるを得なかった。まだ出逢ってからそう経たないはずなのに、カンナは実によくカイのことを見ているようだ。

「それでカイ先生、私たちは海で何をするんですか?」

 はいはい! と手を上げて尋ねる様子からは、カンナのテンションの高さがうかがえる。

「綺麗な貝殻でも探すか?」

 カイは冗談のつもりで言ってみせたが、カンナは今までに見たことのないような素直な笑顔をして、「じゃあどっちがより綺麗なの見つけられるか、勝負ね!」と口にした。

 腰を屈めると、彼はほんの一瞬だけ、さっき思い出したのよりさらに幼い頃に戻ったような錯覚に陥った。

 まだ自分の名前にコンプレックスを抱く前、彼は自分の名前に冠されたそこが大好きだった。様々な貝殻を見つけては、日傘を差して立っている母親のところへ駆けよっていった。

 姿勢を低くしたままで、目線を前にしていくと、一心に探すカンナの姿が目に入った。

 彼はカンナのいる場所よりずっと向こうに、幼い自分が立っているのを見た。彼女の言うような天使だとは思えなかったが、幼い彼は大人になったカイを見つめかえしながら、何やらにこにこと微笑んでいた。

 カイは少しだけ、自分を許してみてもいいかもしれない、と思った。

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