第31話 許し

「足疲れたぁー!」

 喫茶店の円テーブルに右の頬を押し付けて、カンナは声を漏らした。

「やめろよ、みっともない」

 カンナはすっくと姿勢を正すと、「カイって結構そーゆーの気にするよね。育ちが良いって感じする」と言った。

 そういえば、藤堂と朝食を共にした時も似たようなことを言われたな、なんて思い出しながら、「普通だろ」と返した。

「他人にどう見られるかとか、お前気にしないのかよ」

「そりゃ気にするよ、気にするけどさ、カイの前だって思うとつい気が弛んじゃうんだよ」

 キョトンとするカイを見て、カンナは「え、何?」と聞き返した。

「お前の場合、何処にいるのかじゃなくて、誰といるのかで考えるんだな」

「私が普通だと思ってた。居酒屋だってそうじゃん。同じお客さんでも、上司みたいな人と来る時と恋人と来る時じゃ全然反応違うよ」

 カンナは腰を立てた。少しばかり、話に熱を入れる気になったようだ。

「まあな。でも同じ相手とでも、場所によって振る舞い変わると俺は思うけどな」

「カイって、偉い子なんだね」

 カイは再びキョトンとせざるを得ない。二十六の男をつかまえて「偉い子」というのにも引っかかりを覚えたが、自分がそう表現されるとは思わなかった。

「空気が読める、ってことでしょ。日本人が欲しくて止まないスキル。ほら、そういうタイトルのゲームとかあるくらいだし」

「周りが今何を求めてるか、みたいなものには敏感かもな」

 少し間を置いてから、「親がそういうのに五月蠅かったから」と付け加えた。そう口にしている間、カイの目はカンナから離れていた。

「窮屈じゃない? いつもそうやって生きるの」

「それに慣れたら、特には」

 半分本当で、半分嘘だと答えながらカイは思う。普段は何も思わないとしても、ふと自分を傍観する瞬間には酷く息苦しい性分だと思わずにはいられない。

「もっと自由に生きたら良いのに」

「やり方が分からない」

 反射的に返した自分に、彼は心底驚いた。本来ならそこは、「十分自由に生きてるよ」なんて言ってうやむやにしてしまうところだろうに。

「したいことして、食べたいもの食べて、行きたいところに行くの。簡単だよ」

 口を開いたところで、言葉は出なかった。カンナはそんな僅かな意思を見逃さず、「言ってよ」と彼を追い詰める。

「何かを自由にしてると、いけないことをしてるような気になるんだよ」

 どうかしてるだろ? なんて自虐なしでは言い切れなかった。

「じゃあ、私が許してあげる」

 再三、彼はキョトンとした。これまで彼が出逢ってきた女性たちとは明白に違っていた。彼女らはみんな、自分自身の問題で精一杯だった。彼をおもんぱかるほどの余裕なんて、誰一人として持ち合わせていなかったのだ。

「一度しかない人生なんだよ。そんな考え方のまま死んじゃったら、生きてない方が良かったって結論になっちゃいそうじゃん」

 カイは出逢い方が全てなのだと思っていた。望ましい始まりからしか、望ましい関係は気付けないのだと決め付けていた。居酒屋からの帰り道、泊めてくれと言ってきた女子高生が初めて光を見せてくれるなんて、とても信じがたかった。

「分かる気がする。もし明日死ぬことになったら、俺はつまんない人生だったな、って思いながら棺桶に入るんだろうよ」

「今から早速しようよ、カイのしたいこと」

 その瞬間、目の前に座っている彼女からは美羽の面影が完全に消えていた。カイは解き放たれていた。カンナは一人の女性として、カイの心をやさしく紐解こうとするミューズのようであった。

「そうだな――」

 目を閉じてカイは思案した。余暇が訪れる度、どうにもならない現実がもたらした疲労を癒すためだけに使ってきた彼には、簡単には思いつかない。

 だがカンナは彼の整った艶のある顔を見つめて待った。むしろ、待ち時間が彼への想いを高める大事な時間のように思えた。見つめるだけで愛おしさが募る恋なんて、もうするはずがないと決めていた心には、すっかり潤いが戻っていた。

「海に行きたいな」

 ゆっくりと開かれた目が、カンナのそれと結ばれる。

「良いよ。今から行く?」

「お前が良いなら」

「良いよ。ローマだって、アフリカだって行くよ。カイが行きたいっていうなら」

 同じようにやわらかく口元をゆるめているのに、今そこにあるのは美羽を彷彿とさせることのない、一人の少女のやさしさだった。

「行くか」

「うん」

 二人が立ち上がったのは同時だった。店内にはちょうど、しめやかなピアノ曲が流れていた。

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