第30話 懊悩する魂

 この時間はきっとデートなのだろう。

 カイの目は原稿の文字の上を滑る。

 美羽とこんなふうにしたのは何度あっただろう。甘酸っぱい時間なんてものは本当に僅かで、身体を重ねてからは、それだけの関係でしかなかった。どこかに出かけるようなこともあったかもしれないけれど、多くはそれに消えていった。あの頃はただ、美羽という美しさに本能が訴えかけるばかりで。

 恋とか愛とか、距離とか関係とか未来とかを考える余裕も迷いもなかった。

 でも、と思う。もしここにいるのがカンナではなく、これまで幾度となく出逢ってきた女性たちなら、彼はまた同じ道を繰り返すだけだっただろう、と。

 社会的な枷があるからこそ、彼はカンナに手を出さない。恋人になることさえない。皮肉にも、それが彼の欲していた美しい関わりをもたらそうとしている。だが、もたらすまでは至らない。

 手を伸ばせば幸せにはならない。彼には分かっている。自分がどうしようもなく、屑であることを。箍が外れたら、カンナもまた、美羽になってしまうだけだろう。

 カイは軽くかぶりを振ると、目の前にある展示品に意識を向けようとした。

「こうやって見てると、認められるのは本当に頑張った人だけなんだな、って気がするよね」

 結局、カイの心は現実から逃げることは出来なかった。

「頑張った人の中でも、ほんの一握りだろ」

「そう考えちゃうから、凡人は最初から頑張れないよね」

「お前はまだ、何にでもなれるだろ」

「まさかぁ。私だってもう十九だよ? 若い才能っていうのは、中学生とかだよ」

「お前も十分若いよ」

 そう口にしながら、誰かに言わせれば、カイも本当はそうなんだろうな、なんて思った。やり直せないことはない。何にでもなれるかはともかく、疎ましい今から抜け出すことくらいは叶うような気はする。

「ねえ、カイ」

 一瞬、カイはそこに美羽を認めた。声質は似ていないのに、彼の傍にいるのはあの美羽だった。

「カイは私が若いから、本気で考えてくれないの?」

「何の話だよ、いきなり」

「良いよ、そうやって鈍いフリしなくて」

 カイの名を呼ぶ口元は、やさしくゆるんでいた。まさに、はじまりの頃のように。

 美羽――何度も塗りつぶそうとして、別の誰かを好きになろうとした。その度に、甘い塗装は剥がれ落ちた。それでも、時と共に過去として色褪せてはきていたはずなのに。

「なんて、冗談だってー。本気にした? ねえねえ、今ちょっとでもドキッとした?」

「するかよ」

 カイは人差し指でカンナの額を小突く。理性でも本能でもない何かが、そうさせていた。

 踏み越える――いいや、踏み外すことは、決して許されないことだった。事実上の何であれ、二人の関係に名前が与えられれば、この幸せと呼ぶべき時間は、幸せによく似た紛い物に変わるだろう。

(やり直せるわけがないんだよ)

 旅籠はたご美羽みうは、もういないのだから。

 だからといって新たに始めることも出来ない。それなら、カイに残された手段はただ一つ。

「お子ちゃまが調子乗ったこと言ってんじゃねえよ」

 徹底的に自分の心を殺すこと。

 いずれカンナは彼のもとから去るだろう。確かに彼は彼女が求めるものをほぼ無償で与えているが、あまりにも見返りを求めなければ、やがて自分が放っておかれているような感覚に陥り、果ては自分に興味がないのだと錯覚するだろう。そして去っていく。

 それで良いと、カイは思うことにした。カンナと出逢ってしばらく。これまでも心が揺さぶられることは何度となくあったが、寄せては返す波のように、穏やかなリズムでしかなかった。だが今度のそれは違う。突然訪れた巨大な台風によって生み出された、大時化おおしけなのだ。早く過ぎ去ってもらわねば、やがて明らかになる被害は尋常でないものになるだろう。

 だがカイは知らない。求められ続けてきた人間にとって、求められないという事態は、何としてでも求めさせたいと思わせるに過ぎないことを。

「お子ちゃまじゃないし。来年には成人するんだから」

 人は決して、相手の目に映る自分を見ることが出来ない。それぞれのフィルターによってすっかり変わってしまう別人のような自分など、知る由もないのだ。

 カイには決して、ますます心を焦がそうとするカンナの心は理解出来ない。

「知ってるか? 年取るだけじゃ本当の大人にはなれねんだよ」

「そうやって知ったようなこと言ってるカイだってきっと大人じゃないし」

「かもな。ま、大人なんてなったところで何も良いことないしな、子どものままでいた方が幾らかマシだ」

(無知な子どものまま、悩む自分に悩まない方がよっぽど良い)

 年を取るだけでは大人にはなれないと知っているのに、人はいつかどこかで、勝手に大人になってしまっている。

 彼はすぐ近くのショーケースに目を落とす。飾られた創作ノートには、丸で何重にも囲まれた「懊悩」という字が書かれていた。

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