第29話 彼を変えた誰か

 カンナは一人称の小説が苦手だった。数多いる登場人物の一人しか内面が見えないのは、多感な彼女には窮屈だった。

 往々にして彼女は主人公には惹かれない。脇役にこそ想いを馳せる彼女には、三人称の複雑なカラーが必要だった。

 幸せになるか不幸せになるか、濃淡が明らかな主人公より、惑い続ける脇役の曖昧さが彼女にとっては現実的でたまらなかった。

 大して苦くもない不幸をいつからか重ねるようになって、彼女は余計にその傾向を強めた。

 だから今、戸惑っている。久々に恋をして。最後に恋なんてものをしたのは、いつのことだったか。これまでねぐらにしてきた男たちの中にも、時には多少ばかり良いと思える部分はあったけれど、いつでも代わりを見つけられると思っていたし、事実そうしてきた。

 けれどカイは、違う。何が違うのかは、分からない。顔が良いから? 求めてこないから? 何かを抱えて見えるから? 今までで一番都合が良いから? 理由を考えても今ひとつ納得のいく答えが得られないけれど、失いたくない気持ちだけは真実だと思えた。

「ここ!」

 カンナはその建物の前で足を止めた。

「文学記念館?」

 カイはポカンとした顔をしていた。

「一回来てみたかったの」

 何回か瞬きをしながら見てきた彼に、「私がこんなところに来るのはおかしいって言いたいの?」とカンナは少しむくれてみせた。

「いや、別に。図書館で本読んでたのも見たし」

「その目は他に言いたいことがあるって言いたげなんだけど?」

 言われてカイは視線をそらした。

「そこまでの本好きだとは知らなかっただけだ」

「ま、良いけど。入ろ?」

 チケット売り場の若い女性は時折カイにちら、ちらと目線を向けていた。男子が胸元を見てくる視線も分かりやすいけれど、女性が好みの顔に目を奪われてしまうのも傍から見ると分かりやすいのだなと彼女は思った。

 確かにカイは顔が良い。さっきも街行くたくさんの女性たちが彼を見て心穏やかでなくなっていた。でもカンナにとっては、それは最たる理由ではなかった。

 あの夜、カイに声をかけたのは、利用しやすいと感じたからだ。友人との会話の中で彼が今独りだということが分かって、なおかつ擦れた空気を醸し出していたから、自分のざらつきを受け止めてもらえる可能性を見出した。これまで頼ってきた男たちの遍歴を見れば、カンナが顔で相手を選んでいないのは確かだった。

 けれど今、彼の容姿が魅力的であることが全くの無関係であるとも思えない。それは一つの大きな理由として、彼に執着させている。

 だが彼の美しさは、同時に不安を引き連れてくる。

(どうして私なんかを受け容れてくれてるの?)

 彼に惹かれれば惹かれるほど、彼の目が現実から遠いどこかに向けられている理由が知りたくて仕方なくなる。彼の傷心は、つい最近出来たものではないことは彼女にも分かっていた。部屋に残された化粧品やら何やらは、意識していないからこそそのままになっているのだ。

 カイが振り払おう振り払おうとしている誰か。それはいったいどんな人物なのか。彼女の何が、そこまでカイを苦しめつづけるのか。彼はきっと、誰にでも同じ心の距離を取るのだろう。今もそうだ、カンナに意識を向けることなく、チケット売り場の彼女の手元に視線を落としているから、向こうはどぎまぎして百円玉を床に落とした。

 カンナは名も知らないカノジョXにまだ形を得ないほどの怒りを抱きつつあった。彼女のおかげでカンナはカイと出逢ったのだが、カイをこんなふうにしたのは、その女だと思えば、謝りの一つでもさせたい気がした。

 カイはカンナの方を見ることなく、チケットの一枚を手渡した。入場口でチケットを千切った女性も、やはり何気ない感じを装いながらも彼のことを気にしていた。

 進路に従って進むと、美術館や博物館に特有のほの暗い空間が広がっていた。ガラスケースには早速文豪が執筆に使っていた万年筆や、推敲の後が残る原稿用紙が展示されている。

「一人なら、来ようと思わないところって結構あったりしない?」

 友人に贈った書簡に目をやりながら、カンナはぽつりとこぼした。

「牛丼屋とかか」

「それ、わざとふざけてるでしょ」

「一人じゃ行かないところの代表だろ」

 こんなふうに戯けてみせる部分が、僅かに残った純粋なカイなんだろうな、なんて彼女は思う。ある時までは周りと同じようにバカをやっていたはずの彼から、Xは多くを奪い去った。

(どうしてカイを傷付けたの)

 こんなにもカンナをあたたかな気持ちにさせてやまない人を、かつて傍にいた彼女はなぜ愛しきれなかったのだろう。

 カンナの目には、「如何して夏子は雄一郎のもとを去つたのだらふ」という一文が映る。小説を好む心は、自問の多い心かもしれない。直接尋ねてしまえば済む話を、相手を思いやる心にかこつけていつまでも引きずる。自分と話す時間が多いから、溢れ出た言葉が小説になるのだとしたら、なんて考えたら何だかバカバカしく思えてきて、カンナは視線を上げた。カイは少し進んだところにいた。

「つまんない?」

「いや。こんな所に来るのは中学以来だからな、新鮮で良い」

 どうやら嘘は言っていないらしい。彼の目線は確かに最初にその作品が載った雑誌に向けられている。

「そう、なら良かった。私だけが楽しいんじゃ、悪いなって思ってたから」

「本当にそう思ってんなら、最初に行き先言っとけよ。後出しは反則だ」

「あは、バレたか」

 それで止めようと思っていたのに、残りの言葉は続いて出てしまう。

「嫌って言われるのが怖くて。ここ、ずっと来たいと思ってたから」

 どうにか、カイ以外をその相手に選んだことはなかった、ということまではこぼさずにいられた。だが、余韻の残る歯切れの悪さが、カイに汲み取るだけの余地を生んでしまっていた。

「こういうまともな所なら、俺は嫌がったりしない」

 けれど、やはりカイは汲み取ったとは言わない。それはカンナを突き放すことと同義で、彼が現実なんて見ちゃいないことを告げていた。きっと、「まともな所」でなかったとしても、同じように言っただろう。

「じゃあ、今度はここに行きたい、って先に言うね」

 彼女もまた、カイの心を見透かしたとは匂わせない。

 互いに、相手の本心と向き合う強さは持ち合わせていなかったから。

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