第27話 帰りたくなる場所

「ただいま」

 そう口にしたのは、いつ以来だったか。就職を機に一人で暮らすようになってから、家を出る時も家に帰ってくる時も、何も言わないようになった。必ずするように躾けられていたはずなのに、抜けてしまうのは一瞬のことだった。だがそれは、聞かせる相手がいれば、自然と返ってくるものでもあったらしい。

 だがそれにしても、ドアを開けただけでそう口にするとは、驚くべきことだった。それはつまり、ここに誰かがいるという前提を自分の頭の中に作っているということだ。

 玄関には彼のより随分小さいスニーカーが脱いである。それを目にして彼は、苛立ちが募らないことを不思議に思った。ついさっきまで、藤堂といた間は緊張してならなかったのに、その糸がほぐれにほぐれ、今はとても落ち着いた気持ちが宿っている。

「あ! おかえり!」

 廊下に顔を出したカンナは、ピンクの厚手のセーターを着ていた。毛先にはふわふわとした癖が付けてあって、小さく揺れるのが愛らしかった。

「お風呂沸かしてあるよ! 先入るの?」

「ああ」

 気が利く奴だな、と思いながらスーツを脱ぎ、湯船に浸かったところまで行ってようやく、彼はこの事態の不自然さに思い至った。

(いや、おかしくはないが……おかしいな)

 まるで新婚か何かだ。付き合っているわけでもないのに、それ以上の関係みたいなことをしている。実際にこんな新婚がいるかはさておき、カイはカンナに随分と気を許してしまってる自分に気付いた。このまま彼女はなし崩し的に彼の聖域全てに入り込んでくるのだろうか。

 だがそんなカンナの振る舞いを、彼は嫌に思えない。それは相手がカンナだからなのか、美羽の面影にかこつけているからなのかは、分からない。

 彼はバスタブの縁に頭をもたせかけ、出張の疲れを取ることに専念した。目を瞑れば、熱い息と共に身体の重みがお湯に溶け出していくような気がした。家族と暮らしている時も、一人になれるこの時間は癒しだった。実際の心身への効能なんかは温泉の方が高くあるのだろうが、誰にも邪魔されずくつろげる点で、彼は家の風呂を愛していた。

 風呂を出て居間に来ると、カンナがベッドにもたれて本を読んでいた。そうしている姿は、本当にあの頃の美羽を見ているようだった。

「出張ってどこ行ってきたの?」

「岡山」

「岡山……ってどこら辺だっけ。九州?」

 冗談だろ? という顔を向けると、彼女は「あ、四国! 四国でしょ!」と慌てて訂正した。

「中国地方な」

 ギギギ、とカンナは顔を横にそらす。

「地理は苦手なの。ってか小学校でちゃんと習ってないし。あ、サボってたわけじゃないよ。単純にやってないの」

「意味分かんないな。普通やるだろ」

「やらなかったの、うちの学校。私ね、パパがいた頃は神奈川の海辺に住んでたんだけど、そこの学校多分特殊で、海行ったり畑行ったり、勉強以外のことが中心だったの」

「俄には信じがたいな」

 カンナの生きてきた世界は、とことんカイのとは違っている。同じ世界の住人だと信じるのが難しいくらいだった。

「今はどうか知らないけどね、私の頃は本当にそうだったんだから。神奈川県の勉強はしたけど、他の県はそんなにしてない」

「でも常識だろ? 岡山がどこら辺かなんて」

「知らなくたって生きていけるし。それよりカイ、お土産は?」

「は?」

 カイは即座にそう返してしまった。

「お土産。ないの?」

「ただの出張だぞ……」

「えー有り得ない! 普通買うじゃん! いつも行かない所行ったんだよ? 買うよね! お土産!」

 そういえば藤堂は駅で何か買っていたような気がした。なるほど、お土産だったのか、と今になって分かった。会社の面々は仮にハワイ旅行に行ったってお土産を配ったりしないし(そもそも東みたくお喋り好きな者でもなければ旅行に行くとさえ言わないクローズな空間だ)、頻繁に会う友人がいるわけでもないカイに、お土産などという発想が生まれるわけがない。

「私はこうやって賢くお留守番してたのに、何のお土産もないなんて酷いよ」

 カンナが腕を組みながらぷくぅ、と両頬を膨らませてみせると、悪いことをしたような気にもなった。もちろん留守番を頼んだ覚えもないが(行くことは伝えたものの、帰る日にちを伝えてはいなかった。おそらくカイが家を空けている間、ずっといるつもりだったのだろう)、こうやってカンナと話すだけで癒やされる自分がいるのも事実だったから、彼は何かで埋め合わせをしてやろうと決めた。

「悪かったよ。明日どっか連れてってやるから」

「え、本当? 良いの?」

「良くないって言ってやろうか」

「ううん! 良い! 良い! 凄く良い!」

 はしゃぐ姿を見れば、やはりまだそんな年頃だな、と感じて少し胸が痛んだ。彼の眼の前にいるのは、普通であればいてはいけない相手なのだ。たとえ向こうが望んでいても、彼は拒まなければならない。それが彼の思う「常識」だ。

 だが今日は疲れていた。それを理由に考えを放棄することが出来た。

「腹減ったんだけど、夕飯、作ってくれてたりするか?」

「うん。昨日の分と合わせて二食分、たっぷりあるよ」

「いや、そんなには食えないけどな」

 出来ることなら、ずっと何からも目を背けていたい。そう思いながら、やがてそう出来なくなる日が来るだろうという心の声を無視して、彼はカンナとキッチンに向かった。

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