第26話 光の終わり

 疲れていたはずなのに、カイは目覚ましが鳴るまでに三度も目を覚ました。その度に冷蔵庫にしまった水を口に含んでは、このまま眠らずに朝を迎えようかと思ったものの、結局横になって目を瞑りさえすれば、浅い眠りには至るのだった。

「よく眠れました?」

 レストランで顔を合わせた藤堂は、まだ目元には眠気が残っているように見えたが、皿の上に乗せられたいくつものパンが彼女の健在っぷりをありありと主張していた。クロワッサンにデニッシュにあんパン……いずれも一口サイズとはいえ、カイには朝からそんなにも胃の中にものを詰め込むことはとても出来ない。白さの目立つ彼の皿の上には、スクランブルエッグとソーセージが小綺麗に盛り付けられている。

「あんまり。出先じゃよく眠れないんです、昔から」

「結構枕とかにこだわりがあったり?」

「かもしれません。そんなに深く考えたことはないですけど」

「ちゃんと考えた方が良いと思います。社会人ってほら、身体が資本って言うじゃないですか」

「藤堂さんが言うと説得力ありますね」

「笑いごとじゃないですよ。人間無理がたたると、こう目の下のあたりが痙攣しだすんです、ぴくぴくって。気分も陰鬱になりますし、健康第一でいかないとダメです」

 そう言ってクロワッサンを食んでいく姿を見れば、改めて藤堂が輝かしい女性であるように感じられた。

 前向きに物事を捉えられる、昔は何てことのないただの気質だと思っていたが、今はそれを持ち合わせていることが人生というゲームで振るサイコロの出目を良くするとさえ思える。

(気の持ちようで俺もそうなれたら苦労しないのにな)

 早くも食事を終える気持ちに移行したカイは、紅茶のカップに口を付けた。

「赤間さんって上品ですよね。食べ方とか、飲み方とか」

「普通でしょ。俺と藤堂さんで何も変わらない」

「そんなことないです。品を感じます。もしかして良いとこのお坊ちゃんだったりします?」

「まさか。ごく普通の家庭ですよ」

 両親共に健在、息子と娘一人ずつ。夫は一流企業に務め、妻は専業主婦。今の若者には無理な暮らしが通るだけの稼ぎと安定。それはどこまでも、ありふれた家庭だった。その外枠だけを見る分には。

 カイは良い加減藤堂との会話が苦しくなってきていた。どうしてこう、人の中身を逐一明らかにしようとしたがるのか。彼がこれまで選んで来たのは、その多くが踏み込んでこない相手だった。家庭の事情や生活のあり方、そういった内面の形成に大きく関わる部分は触れない者たち。

(でもだからこそ、長続きする恋愛や、結婚にまで至らないんだろうな。穢い部分を見せるのも触れるのも、俺は拒んでしまうから)

 浅い付き合いが最後に行き着くのは、いつだって身体の繋がりだった。しかしその一方で精神的な繋がりを求めて止まないから、最終的に破綻する。身体の繋がりは、簡単に替えが効くものだから。

 それでも、つぶさに明らかにしようとしてくる藤堂と向き合い続けることが、自分を変え、その苦しみから抜け出すことになるのだとしても、彼には途中で辛苦から逃げ出すのは明白だと思われた。

「今日もさっと仕事済ませて、手早く東京に帰りましょうね」

 カイは人前でそういった感覚に陥ると、決まって優しさを創る。自分の醜さが顔に出ないよう、笑顔を浮かべる。自分を騙して、相手を騙す。それが彼のような者がこの社会で不足なく生きていくための拙い戦術だった。

 そんなカイの言葉が火を点けたのかどうかはさておき、藤堂は昨日以上の速度で仕事を片付けていった。飲むために注いできたはずのカフェラテは手つかずのまま冷め切り、彼女のタイピングの振動で何度も水面を揺らした。彼女の口数が減ったおかげでカイも集中することが出来、もともと高めなスペック通りの仕事をこなすことが出来た。

 昼過ぎには、もう作業の完了はほぼ明らかだった。後いくらかのチェックだけを残したところで、二人は休憩を取ることにした。

「もうほとんど終わりなんですって? 本当あなたたちが来てくれて良かった!」

 今日の社長は身体のラインがくっきり見えるニットのセーターを着ていた。美しいそのシルエットは、ここに務める多くの社員に優っていた。

「隆ちゃんの所の社員さんって、みんなあなたたちみたいに優秀なの?」

「私は全然ですけど、赤間さんを含めて、皆さんとても優れた方たちです。ね、赤間さん」

 よくまあそこまでの謙遜が出来るな、と思いつつ、カイは「実際優秀な人が多いのは事実ですね」と同意しておいた。出来ることなら彼も謙遜しておきたかったが、藤堂が「そんなことないです」とか言い出すような気がしてやめた。

「真剣に引き抜き考えちゃおうかしら? こっち方面出身で地元に帰りたがってる人がいたら、ぜひともうちに声をかけるよう、言っといてもらえない? もちろん、あなたたちでも良いのよ!」

「じゃあ、東京での暮らしに疲れたら、その時はぜひお願いします」

 それは昨日もやったやり取りだろ、と心の中で突っ込むカイ。社長の発言がお世辞なのか本心なのかは読み取れなかったが、彼は岡山なんて二度と来るもんか、とさえ思っていた。岡山という場所は藤堂の言ったとおり素敵な場所だが、彼にとっての岡山は、ここ二日間でのエピソードが詰まった息苦しい場所となってしまった。

 別れの場面でさらにもう一度同様なやり取りが起こり、ますますカイは辟易したが、それも新幹線に乗ってしまえば過去のこととして忘れ去ることが出来た。行きと同じく藤堂は座席に座ってすぐ眠ってしまった。乗り物でそうやすやすと眠れない彼はそんな彼女の寝姿を横目に、ともかくこれで彼女と近い距離にいなくて済むな、と安堵して、鞄に忍ばせていた『風立ちぬ』とまた向き合うことにした。今度はいくらかはページを読み進めることが出来た。それほどに現実以外の何かに心を向けたかったのかもしれなかった。

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