第20話 あるいはダイアモンドの原石
教室の中は騒がしいというのに、カンナには音のない世界に見えた。
進学する、就職する、実家を継ぐ、フリーターになる、結婚する、それが彼女にとって全く魅力を感じられない選択であっても、何かしら進む道が決まっている彼らの話を漏れ聞くことは、何ら未来にビジョンを持たない彼女には息苦しい時間だった。
これ以上休んでしまえば卒業が出来ないというほどに出席日数がギリギリだから、心を無にしてでもこの空間にいるしかない。
もう随分前から、先生が何を話しているか分からなくなっていた。自分の人生にはきっと関係のないことたちなのに、どうして時間を割かなければならないのか。眠っているだけなら、いっそ来ない方がマシだとさえ思うのに、高校生という資格を失いそうになれば、主義主張なんてあっさり放り捨てる。何かにもたれかかっていなければ、何も言えない存在が自分だと思っていた。
ドン、と衝撃があって、机が大きく彼女に向かって食い込んできた。どうやら、押し相撲で負けた男子がよろめいてぶつかったらしい。
「わりぃ」
両手を合わせて謝った彼に、気にしてないよ、とカンナは目配せする。
バカだな、と思う。彼らの口から出るのは臆面ない卑猥な言葉で、彼らがするのはいつまでも小学生レベルの遊び。それなのに女子は、そんな誰かを好きになる。
最初の相手は今日しか見ていなかった。勢いから生まれたような彼に、心まで揺さぶられたと感じたのは、錯覚以外の何物でもなかったはずなのに、心の多くを割いてしまったのが全ての始まりだった。
自分の愛し方を学ぶ前に人の愛し方を学んでしまった彼女は、いつからか今日しか見ていない人間になっていた。いつか来る終わりから目をそらし続けて、今日を最低限の痛みで過ごす術を探す。
それで生きていける人たちがたくさんいるのは知っていた。何十歳になっても活き活きと生きることに何の魅力も感じられない彼女には、少しだけ先の未来、どうにか生きていられるならそれで十分だった。いつか電源を落としたくなったら、溜め息も吐かずに「切」の方に力を込められる人間だと思っていた。
それが、ここに来て揺れている。そうだ、こんな気持ちになりかけることは何度だってあった。バイト先の先輩が就職を決めたと嬉しそうに語っているのを聞いた時も、脳の奥がズキリと痛んだ。でもそういった痛みを一過性だと言い聞かせて目を背けてきた。背けられるほど自分とは切り離して考えることが出来た。
カイとの日常は、きっと長くは続かない。もともと、一般的には有り得ない形から生まれた繋がりなのだ。向こうには守るべき社会的地位もある。どういう価値観を持っているかは知らないけれど、その気になったら本線に戻ることなんて容易いだろう。家出娘なんて、どうやってでも追い出すことなんて出来るのだから。
だけど、カイのような人にもう一度会うことなんて出来るのだろうか。生きることに目を向けさせてしまうほど、生きることに真剣に苦しんでいる人に。
彼は、カンナと違って、本当は全力で生きたい人だ。何がそうさせてくれないのかは彼女にはまるで想像もつかなかったけれど、彼のほとんど開かれず、結ばれてばかりの口元は、彼の心の片鱗を語って聞かせてくれていた。
今日の先を欲している人の、すぐ隣にいれば、自分にも今日の先が見えるかもしれない。それを打算と呼ぶべきなのか、それも恋と呼べばいいのか、彼女は客観的に考えることができなかった。
何にせよ、彼女は今、彼の傍にいたい、それだけがハッキリしていた。今日も行くね、なんてメッセージを送ろうと、携帯のロック画面を点けた時だった。
〝出張で今日は家に帰らないから〟
心の端が小さく欠けた音がしたような気がした。
「こんな時はいてよ」
細めた目でこぼす。
無理な話だ。分かっているのに、わがままを聞いてほしかった。そう思うほど、もうカンナはカイに依存しようとしていた。出逢ってからの日数の短さなんて関係ない。これが運命でないというなら、この世に運命なんてきっとないのだ。
(決めた。カイが帰ってこなくても、カイの家に行く)
帰ってきたら、とびっきりのご馳走でもてなして驚かしてやろう。どんな顔をするだろう。あのほとんど変わらない表情が少しでも柔らかくなったら面白いに違いない。
それを今日の先と呼ぶのはズルいと分かっていたけれど、何かがこれまでと違うような気がしていた。そして、それを確かにこれまでと違うものにするのは、他ならぬ自分の役目だと思った。
気が付けば、教室には音が戻っていた。
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