第19話 恋に向かない

 カイは窓の外から視線を外すと、隣で眠っている藤堂の姿を確かめた。出会い頭から「ちょっと寝不足で……」とあくびをしていた彼女は、新幹線に乗るとすぐに眠りこけてしまった。

 すっかりカイを信じ切っているのか、実にほぐれた表情をしている。

(俺が女ならもっと警戒すんだけどな……)

 ゆっくり見つめてみても、やはり彼女の目鼻立ちは非常に整っている。もてはやすものの最後の最後で奥手な会社の連中は、今のところ藤堂にアタックしたという話は聞かない。確かに相手を気後れさせるほどの美しさだ。

 綺麗さについては目の肥えてしまったカイでさえ、意識しなければ見続けてしまうほどの麗しさ。もちろん、化粧の上手さもあるのだとして、それを差し引いても素地の整い具合がよく思えた。

 こうも美しい容姿をして、愛想よく振る舞うことの出来る明るさを持ち合わせていられるなんて、同じく端麗な見た目を持っていると評され続けてきた彼からすれば、どこか羨ましく、どこか憎たらしく、どこか理解出来なかった。

 ふいに、パチ、と藤堂が目を開けた。

 彼女は驚くでもなく、目を合わせたカイに微笑んだ。

「もう着きました?」

「いや、まだ。っていうか全然」

「そうなんですね。なら、まだ寝てますね」

 そう言って藤堂は目を瞑った。あっさり寝入ることが出来るのか、彼女はすぐに穏やかなリズムで呼吸しはじめた。

 さすがに次に目を開けた時も同じ感じだったら変に思われるだろうからと、カイは持ってきた「風立ちぬ」を出して、最初のページを開けた。やはり家に帰ってからは読むようなことはなくて、延長の手続きだけを済ませていたそれはもうすぐ完全な返却期限を迎えようとしていた。

 目は文字列の上を滑る。意味も頭に入ってくるのだが、理解しているとはとても言えなかった。一文一文が何を伝えているのかが分かるのに、それらが繋がって物語を構築しようという働きには至らないのだ。

 十ページもいかない内、裏表紙は天井を見上げていた。

 読書が好きな頃は確かにあった。美羽との出逢いがそれを最高潮に高めて、でもその最中に失って、以降は果てしなく距離を置くことになった。

 本を読むという喜びを、どうして自分が感じられたのか、まるで思い出せない。僅かな煌めきを最初の数行の内に見たような錯覚は覚えるのだが、そこから先、それがやはり気のせいでしかないと悟るのだった。

 通路を挟んで反対側に目をやると、大学生くらいのカップルが互いにもたれかかって眠っていた。カイはそんなふうに旅行に出掛けるようなことは一度もしたことがなかった。いつも乾いた日常を潤すのが精一杯で、日常の続きにある非日常なんてものは知らないのだった。

 それは幸せなことなのだろうか。思う彼に答えてくれる人はいない。

 不幸せを薄めるための恋をしてきた彼には、そういう相手ばかりが集まってきた。同属は初め惹かれ合うけれど、終いには反発し合うのが定めだから、彼はいつも最後に微笑むのが恋だと思うようになっていた。

 だから、カンナとの関係に名前をくれてやりたくはなかった。始まらなければ、終わらない。浅ましい抵抗ながら最も有効な一打は、大人になってしまった彼には実に効果的だけれど、そう長くは持続しないと分かっていた。

 彼はもう一度裏返ったままの「風立ちぬ」に目をやった。それはあまりにも象徴的だった。

 再起の機会を思わせてくれるような喜びを味わわせてくれたのに、いつの間にか再起は出来ないと告げてくるだけの重荷になってしまう存在。あっさり目の前から消し去ってしまえば良いのに、そうするのも億劫で、心を刺したままなのを放置して、痛みに慣れる道を選ぶ。

 それでも二十六歳なのだ。自分が変わらなければ、どうすることも出来ない。そんなことは転職を促す広告で、久々に買ってみた漫画で、たまたま付けたテレビでやっていたドラマで、まるで後頭部を押さえつけられて水の中に押し込まれるような苦しさとして感じていた。

 変わろうとして手をかけたドアノブの数は幾多。そのどれを開けても、待っていたのは同じ結末。

 箱の中に、当たりが入っているから人は試行を繰り返すのだ。当たりが入っているかさえも確率にされてしまったら、人はいつまで手を入れようとするだろう。

 カイはスマホを出した。その指は、何とはなしにLINNEを立ち上げる。時系列通りに残る幾多のトークルームは、そのほとんどが彼のトークで終わっていた。送られっぱなしなのは、彼の性分が許さなかった。

 下へ下へと動かしてから、一番上に戻る。カンナとのやり取りも、やはり彼のトークが最後に表示されている。

 いつかこれも過去に埋もれていくのだろうか。スマホから視線を外した彼は、そのまま藤堂に目をやった。

 恋が間になければ、彼はこんなにも誰かと上手くやれるのに。

 不向きなことを、延々続ける自分がいる。

 心地良さげに目を瞑る藤堂を見ていると、結局それだけが救いなように思えて、彼は自分も倣うことにした。

 彼女と違って、睡眠は足りていたけれど。

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