18「Holy Teardrops」
救急車のサイレンが止まり、救急隊員が駆け付ける。英語で応対するアルスは、流雫に短文のメッセージを残すと、フランス人2人に混じって救急車に乗る。
心電図は、時々無機質な音を立てるだけだ。それが一層、3人を不安に陥れる。
プリィはただ祈るだけだ。セバスはただ三養基を見つめている。そしてアルスは、スマートフォンの画面を見つめていた。
恋人からのメッセージは、アルスにとって気を紛らわせるのに有効だ。尤もそれは、惚気話でも他愛ない話でもなく、フランスで何が起きているかの話でしかないが。
アリシア曰く、昨日の今日で特に変わった動きは無いらしい。アルスは少しだけ安堵するが、早朝からレンヌの住宅街の一角で街を眺める少女は、恋人を不憫に思っていた。
……アルスの日本への渡航は、遊びのためでも留学のためでもない。レンヌの司祭からの指示だった。
日本での活動を禁じられている血の旅団にとって、流雫を軸に日本との接点が有るアルスは使い勝手がよいことが、その理由だった。尤も、本人は乗り気だったが。
それでも、何の事件も起きなければ普通に過ごせたのだ。それが台場と渋谷で事件に遭遇している。どんなに日本で頼れる3人が傍にいるとしても、安心できるワケがない。彼の言葉を借りれば、日本は厄介な国だからだ。
そう、日本は厄介な国。アリシアもそう思う。自分と同い年の高校生が、銃を手にテロや通り魔と戦っているのだから。それも、大人の私利私欲や都合に振り回されながら。
「厄介な国……でも希望は有るわ」
と、アリシアは呟き、PCの電源を入れた。
冷静さを欠かない流雫とは対照的に
「五月蠅い!」
と叫んだ男は、再度引き金を引こうとした。しかし、それが捉えるのは流雫ではない。
澪は咄嗟に銃を構え、上空に向かって引き金を引いた。小さい銃声に周囲を威嚇するだけの力は無いが、少しでも男を引き付けられれば。
「無差別殺人犯になりたいの!?」
と叫ぶ澪に、男の目は向く。
「標的はあたしでしょ!?」
「澪!?」
流雫は思わず声を上げる、それは自分への合図だった。
澪に気を取られた男の脇腹を、ガンメタリックの銃身が狙った。一瞬で詰められた間合いに何もできない男は
「ごほっ……!」
と噎せる。一度離れた流雫は、銃を構えず、ただ男を睨んでいる。
ヤジ馬の輪の中はフラットだが、障害物は1つだけ有る。そしてヤジ馬がデスゲーム感覚なら、最もつまらない決着を見せつけるまで。
そう思った流雫は、一瞬だけ詩応と目を合わせると後ろ向きに地面を蹴って反転する。
ヤジ馬が逃げ場を与えないことは判っている。流雫の目的は、詩応が取り押さえた犯人だった。
「流雫!」
詩応が声を張り上げながら、銃を突き付けていた犯人から離れる。その瞬間、少年の靴が男の背中に乗った。
「ぐっ!!」
その醜い声も聞こえていない流雫は、柔らかい足場に全体重を掛け、膝をバネに宙に舞う。
「何!?」
予想外の動きに、男の脳は一瞬フリーズする。血迷って……いない、と気付いた時には、視界を支配されていた。
「ごっ!!」
男が一際低い声を上げる。流雫の左足が、男の眉間を狙い撃ちした。その勢いに後ろに飛ばされ、仰向けに倒れる男に澪が走り寄る。腹部の上に膝を立てると片腕を押さえ付け、反対の肩に銃を突き付けた。
男は、激しい脳震盪を起こしていた。混濁する意識では反撃など出来ず、低い呻き声を上げるだけだ。
「っ……はぁ……っ……」
左足の甲を押さえる流雫は、しかし静まり返る周囲に手応えを感じていた。
……予想外の動きと望まなかった結末に、唖然とするヤジ馬。エンタメ感覚を吹き飛ばされ、目の前の出来事が通り魔事件であると云う現実を突き付けられる。
「退け!!」
と男の声が響いた。特に澪にとっては、誰よりも聞き覚えが有る声。
助かった、と3人は思った。だが、刑事の娘は2人が気懸かりだった。……戦いが紛らわせていた感情の揺り返しに、襲われるのではないか、と。
ヤジ馬が警察によって四散していく。その中心に寄ろうとする常願に、澪は目を向ける。
……少しだけ、3人だけにさせて。娘の我が侭を、父は受け入れた。
「……詩応さん……」
そう名を呼んだ澪に、詩応は歯を軋ませたまま顔を向ける。その表情を見ていられなくて、澪は無意識に抱き寄せた。
「澪……」
そう小さな声で呼ぶ詩応。……何度、こうして澪に助けられてきただろうか。
澪に甘えているだけだ、と言われれば否定しない。だが、同性の恋人にさえ隠したい弱さを、澪にだけは晒せる。それだけの包容力が、澪には有るのだ。
その隣で、流雫は空を見上げていた。初雪の日の悪夢と戦いながら、とにかく三養基が助かってほしいと願う。
「流雫……」
と、澪に抱かれたままの詩応が呼ぶ。彼の恋人を奪っている感が拭えなくなる。しかし、流雫は安堵の表情を浮かべながら顔を向け、
「澪も伏見さんも、無事でよかった……」
とだけ言った。
デスゲーム扱いされないためにも、銃を使わず仕留めたかった。しかし力では勝てない、だからもう1人の犯人の身体で、撹乱させるしか方法は無かった。
ほぼ思い通りの結果になった。今だけはそれに安堵したい。
「……ああ……」
とだけ、詩応は言った。
……流雫が、空を見上げて何を思っていたか。詩応は容易に想像できる。相容れるようになったとは言っても、やはり姉の死を抱えていることだけが癪に障る。だが、流雫に吹っ切れと云うのは無理な話だ。
ただ、それが或る意味他人への優しさや戦う理由の源でもあるのだ。マイナスも有るが、プラスの方が大きい。だから流雫を信じていられる。
三養基がICUから担ぎ出されたのは、搬送から20分後のことだった。駆け付けた刑事、弥陀ヶ原が医師と話しているが、ポーカーフェイス然とした2人の表情の違和感で、アルスは察した。
数分後、3人に近寄った弥陀ヶ原は
「……残念なことだ……」
と告げた。沈痛な表情を露わにするフランス人2人、その隣で赤いシャツの少年は、或る決意をした。
「……何が起きた?」
その刑事の言葉に、
「……俺は行く場所が有る、ミスター・ミダガハラ。必ず後で合流する」
と言葉を被せたアルスは、
「2人の保護を頼む」
とだけ言い残し、病院を後にした。
「ミヤキが死んだ。後で話す」
とだけ、流雫とアリシアにメッセージを送ったブロンドヘアの少年は、スマートフォンのマップを開いた。フランス人の少年にとって、トーキョーはパリよりも複雑に思える。
……目的地を目の前に、アルスは一度立ち止まる。
「行ける場所まで行け、でも死ぬべき場所は此処じゃない」
とフランス語で呟き、踵を浮かせた。
聖女にとって、礼拝堂は落ち着く。この静寂が、邪念を霧散させる気がする。昔からそうだった。
聖なる場所だとしても、セブと密室に2人きりなのは、疚しいことなど無くても周囲の目が有る。聖女である以上、特別な感情は対外的に認められないからだ。
突然、ドアが軋んだ音を立てた。アリスが顔を上げる。
「アルス・プリュヴィオーズ……!」
少し前に去った少年の名を、口にする聖女。何故いる!?
「重要な話が有る、聖女アリス」
「邪教の話など聞くに値しない、今すぐ……」
と制止を試みようとするアリスに、アルスは残酷な現実を突き刺した。
「ドクター・ミヤキが殺された」
「!?」
鼓動が大きく跳ねたアリスは目を見開き、アルスの瞳に釘付けになる。
「シブヤの駅前で撃たれた。駆け付けた時には、既に危険な状態だった」
「……な……、……何故……」
「撃った奴らは、シノが警察に引き渡した。全てはこれから、明らかになるだろう」
とアルスは淡々と告げ、混乱するアリスに近寄る。
「……ドクターはお前を培養した、謂わば生みの親。その死は非常に残念だ……」
「な、何を……」
思わず身構えたアリスの眼前で、アルスは大理石調の床に膝を突いた。普段よりも落ち着いた、聖女からすれば先刻とは別人のような声を、アルスは放った。
我が女神ルージェエールの主、女神ソレイエドールに願う。
マダム・サクラ・ミヤキは斃れた。凶弾と云う、容赦されざる悪によって。
この地から、彼女に鎮魂の祈りを捧ぐ。久遠の安寧を与え給え。
「……ソレイエドールは、慈悲に満ちた女神だ。血の旅団である俺の祈りすら、届くと信じている」
と、アルスは立ち上がりながら言った。アリスは言葉を失っている。この場所での鎮魂の祈りが、完全に予想外の行動だったからだ。
無言のまま踵を返すアルスを
「……ま、待ちなさい」
とアリスは呼び止めた。一度言葉を詰まらせたのは、聖女としての葛藤が有ったからか。
「……シノが言っていた。貴方が、私や教団を護ろうとしている、と」
「ソレイエドールをルーツとする教団の信者としてのプライドだ。祖国の平和のために護る必要が有るのなら、そうするだけのことだ。これ以上穢されるのは、見るに堪えないからな」
と、アルスはアリスに顔を向けないまま言葉を返し、礼拝堂のドアを開ける。
……聖女として押し殺している感情が、決壊するのは時間の問題。怒りと慟哭が混ざる顔を目にすることになるなら、見るのは俺じゃない。もっと相応しい奴がいる。
血の旅団の信者と入れ替わるように入ってくる、スーツの男。ブロンドヘアはアルスと似ているが、顔立ちは聖女の面影を色濃く残す。
「セブ……?」
「聖女アリス、今のは……?」
と問うセブに、アリスは
「……ルージェエールの、戦士……」
と答える。その声は、既に悲しみに包まれている。
「……まさか、邪教に何か……」
「……ドクターへの祈りを……捧げただけ……」
と答えたアリスは、セブから目を背け、祭壇の前に跪く。
「……私も、今は……彼女を弔う……だけよ……」
そう言った聖女の隣に、同じく跪くセブ。弔う、その単語だけで彼は察していた。何故血の旅団の信者が来て、此処で祈りを捧げたのかは判らないが。
「私も、心は聖女と同じです」
とセブは言う。その答えも、信者としては模範的。しかし、今求めているのはそれではない。
かつて、アリスに対等に優しく接していたセブは、今は何処にもいない。それは、彼女が聖女になったからだ。太陽騎士団の象徴として誰からも敬愛され、崇められる存在。それ故の孤独感など、誰にも判らない。
「私は……聖女……」
とだけ言ったアリスの膝下に、小さな雫が落ち、砕け散った。
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