第49話 泣いて肉じゃが
「お姉ちゃん、話って……?」
四月。
桜の花びらを肩に乗せた彼が、居間に現れる。
凍りつくほど寒かった冬を超え、外はすっかり春景色であった。
私はキッチンから彼に声をかける。
「とりあえず、座って」
私の言葉に従い、いつもの場所にいそいそと着席する海斗くん。
まだ夕食には早い時間に呼び出され、彼は理由を探しているようだ。
「新学期、どうだった?」
「あぁ、うん……まぁ、普通かな……去年と同じ感じ……」
春は学生にとって進級の季節であり、今日で海斗くんも高校三年生となった。
とはいえ、彼の姿はあの辛い冬からの地続きである。
むしろ、体はより細くなっていた。
対して、黒々と輝く瞳だけは信念の火を燃やし続けていて、そのギャップは日に日に深まっている……
「学生最後の年だからね。楽しめるといいね」
「うん……」
浮かない顔つきだった。
友達もいないと言っていたし、受験の年でもある。
あまり前向きには考えられないのかもしれない。
それでも。
私は、そして由実さんは、海斗くんに笑っていてほしいと思っていた。
(いい匂い……なんだか、懐かしいような……)
彼が中空に向かって鼻を動かす。
そんな彼の前に、私はひとつの深皿を差し出す。
その上には、ここ何日も秘密裏に研究していた料理がよそってあった。
ようやく完成したのだ。
彼は、その皿を見て呟く。
「肉じゃが……?」
「まぁ、食べてみて」
私はただ、彼を促した。
(見た目が……そっくり……もしかして……でもそんな……)
彼も、少しだけ察しているようだった。
そうだろう。
肉じゃがにしては、結構特殊な料理だ。
トマトやバターを使った、洋風肉じゃが。
おかげで、正解に辿り着くのに苦労した。
「い……いただきます……」
彼は手を合わせると、箸をわずかに震わせながら、じゃがいもを割って、口に入れる。
その途端だった。
(どうして……っ!)
彼のなかから、大きな声がした。
再会してから今までで、一番大きく、感情的な声。
彼の瞳は、ボロボロと涙を流し始めていた。
「どう……?」
「……お母さんの……味がする」
泣きながら、もう一口肉じゃがを食べる。
「お母さんが……由実さんが作ってた……不思議な味……」
彼は、見るからに混乱していた。
私に向ける視線は、疑問、悲しみ、当惑、喜びで複雑な光を宿している。
「どうして……」
どうして、作れたのか。
私は、その問いにはなにも答えず、ただ席を立つ。
そして、彼の隣に行って、その頭を優しく撫でた。
由実さんがするはずだったことを、私を介して、代行してあげる。
これが、遺言だから。
「海斗くん、ちゃんと食べるんだよ。泣いて、笑って、食べて、大きくなって。過去に囚われないで、前を向いて生きてほしい。それが、お母さんの気持ちだから」
海斗くんと喧嘩をした最期の日、由実さんはその足でスーパーへ向かった。
仲直りがしたい一心で、この子が唯一褒めてくれた料理をもう一度作ろうと思った。
轢かれると覚悟した瞬間、彼女の頭にあったのは、海斗くんへの不安だった。
きっと、またあの子に重荷を背負わせてしまう。
自分のせいで私が死んだと思わせてしまう。
でも、もうどうしようもできない。
急に家に来て、迷惑だったよね。
静かにしていたかったのに、うるさかったよね。
それでも、君に前を向いてほしかったんだ。
――ごめんね、海斗。
「この肉じゃがはね、海斗くんのために、由実さんが何回も失敗しながら作った得意料理なんだよ。君に明るくなってほしい、その一心で。お母さんは、君のことを恨んでなんかいないんだよ」
泣き濡れる海斗くんの隣で、私は今は亡き人の気持ちを伝えていく。
由実さんは、ずっとこの子のことを気にかけていた。
苦しみを抱え続けるこの子に、幸せになってもらいたかった。
「由実さんは君のことを、ちゃんと我が子として愛してたんだよ」
私の腕の下で、彼は嗚咽を漏らす。
(そっか……俺、愛されてたんだ……不安になる必要なんてなかった……由実さんは、本当に俺を息子だと思ってくれてたんだから……)
愛が込もった料理は想いを届けてくれる。
たとえ、目の前にいなくても。
声をあげて泣き続ける海斗くんの背をさすりながら、私は空の上に語りかけた。
……ちゃんと通じましたよ、由実さん。
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