第40話 暗がりでハンバーグ(2)
ここですき焼きを食べたのが、遠い昔のよう。
私は広いシステムキッチンでハンバーグを温め直しながら思考を過去に飛ばす。
ようやく電気がついた部屋で、海斗くんはじっとテーブルの前に座っていた。
虚ろで、空っぽで、暗い洞窟のような瞳。
友達がいないと言っていたことを思い出す。
当時は不思議に思っていたけれど、それも今の様子を目の当たりにすれば、もっともかもしれないと感じてしまう。
「……いただきます」
私が用意したご飯を前に、糸で引っ張られているかのようにぎこちなく手を合わせる。
肉を口に入れると、ようやく心の声がこぼれてきた。
(おいしい……)
小さな感想。
それでも、私にとってはホッとする一言だった。
ようやく、海斗くんが生きていると感じられた。
「海斗くん、その……平気?」
そんなありきたりな言葉しか頭に浮かばない自分に嫌気が差す。
平気なわけがないのに。
私には彼の心を癒やす方法がわからない。
海斗くんは、パソコンが起動するみたいにゆっくりと私に目を合わせる。
「平気、がどんな状態なのか……もう覚えてないんだ……」
あまり進まない箸を止めて言う。
「なんだか、ずっと夢のなかにいるみたいで……ひとりでいると自分を外から眺めてるみたいな気がする」
「それは……仕方ないよ。辛いことがたくさんあったんだもの」
「辛い……? それは、違うかも……」
「え……?」
予想とは違う返事。
海斗くんは変わらずに動きを止めたまま、呟いた。
「俺……由実さんを母と呼んだことがないんです」
それは静かな告白だった。
「ずっとよくしてくれたのはわかってるんですけど、どうしても母親だと思えなくて……俺にとっては、お母さんがお母さんだし」
「葵さん……」
彼は無言で頷く。
葵さん。
彼を産んで、七歳まで一緒にいた、正真正銘の『母親』。
由実さんは、突然家族として現れた、知らない大人……
「多分俺、由実さんに嫌われてた。あのときは、反抗期だったし、あんまりいい子供じゃなかったから」
懺悔室に座っているかのように、彼は訥々と語っていく。
「その日は進路の話で色々こじれて、母親でもないくせに、って由実さんに言っちゃった。そんなこと言うつもりなかったのに……それで、泣かせて、気づいたら由実さんは家にいなくて……」
耳を塞ぎたくなった。
続きをききたくない……
「数時間後に警察の人が来て、由実さんが轢かれたって」
海斗くんの声に生気はなかった。
「そのときはなぜか、スーパーで買い物してたみたい。買ったものが転がってたんだって。現場は見てないけど」
「海斗くん……」
「そこに行ったから、轢かれちゃった……」
彼の拳は小刻みに震えていた。
その手を握る。
心の声が流れ込んできた。
(俺のせい……全部、俺のせい……)
そんなことはないと言ってあげたくても、彼はその言葉を決して口にはしなかった。
ただ、私に向かって笑いかけるだけ。
「お姉ちゃんのとこに来たのは、甘えだよ」
「……どういうこと?」
「事故から、なんだかずっと心が寒くて……少しでもあったかいところに行きたいと思ってたら、お姉ちゃんって呼んでた人のことを思い出した……」
ハンバーグはとっくに冷めていて。
彼はその皿に目を落として言う。
「多分、なくしたものの埋め合わせをしたかったんだと思う……だって、家族の呼びかただもん、お姉ちゃんって」
「いくらでも呼んでいいし、甘えていいから……」
願うように告げる。
しかし、彼は力なく首を振った。
「でも、お姉ちゃんは本当のお姉ちゃんじゃなくて、やっぱり他人だから。迷惑かけたくない」
「そんなこと――」
「しばらく、来ないでくれますか……?」
一人で住むには広すぎる部屋が、私たちの会話をきくように息を潜めていた。
この空間は、彼の心を形にしたように、空疎だった。
「自分で頑張るから」
彼は弱々しく笑いかける。
私はその下手な作り笑いを、まじまじと見つめてしまった。
たとえ、声がきこえなくたってわかる。
君は一人になりたがっていた。
君を守りたい、と思うけれど。
「……わかった」
そう答えるしかなかった。
彼は、冷めたハンバーグに再び手をつけ始める。
でも、それは私を家に帰すためだとわかっていた。
私はいたたまれない気持ちになった。
彼は、十字架を背負っているんだ。
自分が、継母を殺してしまったと思っている。
その罪を背負おうとしている。
でも、由実さんはそれを求めているのだろうか……
母親じゃないと言われて、泣くような人が。
私は、やり場のない気持ちを抱えながら、海斗くんの家を後にした。
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