第37話 彷徨ってうどん(2)


「大丈夫、あとはこっちで探すから! ありがとう青葉ちゃん!」

「はい……」


 私は家路を戻りながら、沈んだ声で返事をする。

 結局、私の探した範囲では、彼は見つからなかった。

 昇さんは、私に戻ってよいと言ってくれた。

 警察にも連絡をするらしい。

 雪道を走ったものだから何度も転けてしまった。

 私の全身は、今、情けないほど汚れている。


「見つかったらすぐ連絡するからね!」

「はい、お願いします……」


 電話を切り、とぼとぼと俯いてアパートの階段を登る。

 探せるところは探し切った。

 それでもいなかったのだ。

 もう私に出来ることはない。

 それでも、無力さが身に染みる。


 海斗くん……君はなにを抱えていたの……?

 私は、悩みを話せる相手じゃなかった……?


 考えるたびに、心は厚い雪雲のように重く暗く沈んでいく。

 いや、ただ彼が家で寝ている可能性だってあるんだ。

 悪い方向に考えすぎてはいけない。

 もし寝過ごしていただけなら、少し叱って、許してあげよう。

 自分の部屋がある階へ上がり、無理やり前を向く。

 そうして、目の前の光景に言葉を失った。


 ……誰かが、廊下で、うずくまっている。

 それも、私の部屋の正面で。


 十年ぶりに再会したあのときそのままに。

 冷たいだろうに、地べたに体育座りで座り込んで。

 まるで、親の帰りを待つ子供のように……彼はそこにいた。


「か、海斗くん……」


 近づくほどにわかる。

 彼は、髪から靴まで全身雪まみれでびしょ濡れだった。

 近くには傘も見当たらない。

 黒い濡れた髪の奥から、彼の黒曜石みたいな瞳が私を見上げた。


「お姉ちゃん……」

「……どこに行ってたのッ!」


 私は思わず叫んでしまっていた。

 そのまま、彼の隣に膝をついて、その真っ赤になった手を取る。

 赤切れしそうなほど血の通った手は、驚くほど冷たかった。

 傘もささず、手袋もつけず……この大雪のなかを歩いてきたのか。

 一体、なにを……


「と、とにかく家のなか入って! シャワーだけでも浴びて!」


 事情は後だ。

 今すぐ、この子の体を温めないと。


 私は反応の鈍い彼を部屋へ押し込むと、服を脱がせて風呂場へ突っ込んだ。

 そして、昇さんに見つかったと連絡を入れる。

 そこまでして、ようやく私は人心地がついた。


 シャワーの音がきこえてくる。

 その間に、私は今後の計画を立てる。

 私は、彼に知らせてから脱衣所に入り、服の濡れ具合を確認した。

 防寒着が撥水していたお陰か、服はそれほど濡れていない。

 とりあえずはこれを着てもらう他あるまい。

 あとで海斗くんから鍵を借りて、マンションまで部屋着を取りに行こう。


 今日は、彼を我が家に泊めるつもりだった。

 あの状態で、彼をひとりきりのマンションへ帰すわけにはいかない……


 そこまで決めてから、私は家にあるものをかき集めて、うどんを作り始めた。

 麺はできるだけ柔らかくなるように長い時間茹でておく。

 つゆはできるだけ優しい味に調整して、しょうがを多めに溶かし込む。

 具材も体に負担をかけないようなものを選ぶ。

 とにかく、凍えている彼の体温を戻さなければならない……

 それが最優先事項だった。



   ◇ 



 彼が脱衣所から出てくる。

 温かい湯を浴びて少しは元気になるかと思っていたが、彼の黒い瞳は不安定に揺らいだままだった。

 心だけが、この家に辿り着いていないかのように。


「はい、座って。これ食べて」


 フラフラ歩く彼を、うどんを注いだ丼の前に座らせる。

 湯気がふわっと彼の顔にかかる。

 素直に箸を取って、食事を始めた彼の隣で、私は彼の髪にドライヤーをかけ始めた。


「海斗くん、今日はどこにいたの……?」


 私は、彼がプレッシャーに感じないよう努めながら、一番ききたいことを尋ねてみる。

 彼は、常時よりもさらに小さな声で答えた。


「……地元のほう」

「おうちに帰るためかな……?」


 彼は機械のように首を振る。

 そして、


「……謝るため」


 ポツリと呟いて、口を閉じてしまった。

 ドライヤーをかけ終わり、私は手を下ろす。

 今日は、これ以上きくべきじゃないだろう。

 海斗くんは、小さな口でうどんをすする。


(……あったかい)


 掠れるような心の声がきこえる。

 すると、彼の瞳からボロボロと涙がこぼれ始めた。


「わっ……大丈夫……?」


 背中をさすってやるが、泣き止まない。

 彼は、濡れる瞳を拭いもせず、ただ頭のなかで同じ言葉を繰り返していた。


(ごめんなさい……ごめんなさい……ゆみさん……)


 私は、その声にうろたえた。

 意外な名前だった。

 ゆみさん……?

 どうして今、その名前が……

 困惑しようとも、静かに涙を流す彼から、答えがもたらされることはない。


 海斗くん……君は一体、なにを抱えてるの……?


 私は不安を胸にいだきながら、ただ彼が泣き止むまで背をさすり続ける他なかった。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る