第36話 彷徨ってうどん(1)


 今日もまた、雪が降っている。

 牡丹のようなふっくらとした雪が、灰色の空から降りしきっていた。

 今年の冬は、例年よりずっと寒いらしい。


 冷え込む部屋で、私は暖房もつけずに夕飯の支度をしていた。

 料理をしていれば暑くなるから、ということを自分に言いきかせることで、なんとか寒さをしのいでいた。

 単なる心頭滅却である。

 貧困無職たる存在にとって、電気代は恐怖なのである。

 貯金があるとは言え、住民税も所得税も去年分がのしかかるわけだし、さらに社会保険料も襲いかかる。

 そして、毎月引かれていく家賃。

 生きていけるのかしら……私……


 自分の未来にため息をつきながらフライパンを操っていると、不意に電話が鳴った。

 今の私に電話をかけてくる人など、一人しかいない。

 最近、ご実家に帰ることが多いし、またご飯いらないって連絡かしら……

 でももう作っちゃったし……冷蔵しておくか……


 少しがっかりしつつスマホを取り出した私は、その画面に表示されていた意外な文字列に何度も瞬きした。

 苗字までは同じである。

 が、名前が違った。


 ――絢辻昇


 海斗くんのお父さんからだった。

 私は慌てて火を止めて、通話ボタンを押した。


「も、もしもし……?」

「おぉ、青葉ちゃん! 久しぶりぃ」


 声をきくのは十年ぶりである。

 鷹揚として明るい喋りかたは、当時からなにも変わっていない。

 記憶が高校時代に戻っていく気がする。


「お久しぶりです! どうしました?」

「ごめんねぇ? うちの海斗、そっちにいるかな」


 彼は思いがけないことを言った。

 海斗くん……?

 まだ来ていないけれど。


「いえ、いませんけど……なにかありました?」


 私の質問に、彼はまさに今困り顔をしましたという風な声で答える。


「いやね、今日は大事な日だから帰ってこいよって言ってたんだけどさ。まだ来てないんだよねぇ」

「え……」


 戸惑った。

 今日実家に帰るという話はきいていない。


「ごめんなさい、私は知らなくて……今からマンション行って見てきましょうか?」

「あぁ、いいよいいよ。申し訳ないから。こっちでもう一回電話してみるし」

「そうですか……なら、私も連絡いれてみます」

「あ、本当? 助かるよ」


 私は通話を繋げながら、海斗くんのチャットも開く。

 念のため確認してみたが、今日帰るという話は、やはりどこにもなかった。

 電話口では、大きなため息とともに、愚痴がきこえてきた。


「はぁ、やっぱりまだ一人暮らしは早かったかねぇ。連絡しろっつってもろくにしてこないし、こっちに顔も見せないし。まぁ、学校行ってるのはわかってるからいいんだけどさ」

「……え?」


 昇さんの言葉に、私は固まった。

 戸惑いの渦に飲み込まれる。

 今、昇さんはなんて言った……?

 顔も見せない?

 それは、変だ……


「あの……顔見せないって、最近ご実家のほうよく帰ってますよね……?」

「へ? いやいや、あいつ全然帰ってきてないよ。もう数カ月以上……」


 私たちは、電話越しにも関わらず、顔を見合わせたかのように互いに静止した。

 状況が飲み込めた私は、彼の父に告げる。


「私、とりあえずマンション行ってみます! 様子わかったらまた連絡します」

「ありがとう! こっちも行きそうな場所見てみるから」


 通話が切れたスマホをポケットに突っ込む。

 私はコートと傘を引っ掴んで、外に飛び出した。

 雪が世界を真っ白に染めている。

 嫌な予感が、胸の内をざわつかせていた。



   ◇ 



 雪で煙る街をひた走り、彼の住む駅前のマンションへ辿り着く。

 エントランスに駆け込むと、服についた雪を払うのも後回しにして、呼び出しパネルに彼の部屋番号を打ち込む。

 ただっ広いホールに、呼び出し音が鳴り響く。

 そして、切れた。

 出ない……


 私はもう二度、彼の部屋を呼び出してみたが、応答はなかった。

 寝ている可能性もある。

 けれど、礼儀正しい海斗くんに限って、お父さんや私からの電話も出ず、連絡もせず、寝過ごしているということがあるだろうか……

 私は、昇さんに現状を報告してから、もう一度外へ出た。


 雪は先ほどにもまして降りしきるようになっていた。

 雲は黒く重くなり、鼻や耳が痛くなってくる。

 彼が行きそうなところなど、わからなかった。

 いつも私の部屋に来てもらうばかりで、私の前にいないときの彼がどこでなにをするものなのか、見当もつかない。

 思えば、私は彼のことをなにも知らなかった。

 十年前の姿と今を、安易に結びつけていただけである。


 しかし、探す他ない。

 私は、彼と行ったことのある場所をひたすら駆け回った。

 いる可能性が薄いとはわかっていても。

 私にはそれしかできない……


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