第35話 頑張ってマカロニグラタン(2)


 タワマンや、グラタン片手の、独身女。

 一句読んでしまった。

 グラタンは冬の季語。

 異論は認めない。


 お金持ちの男のもとを夜な夜な家庭料理持って訪ねてくる女って、メチャクチャあざとい奴だとは自覚しつつ。

 それに気づいたときには、私は既にエレベーターで彼の部屋のフロアまで上がっていて、彼はそんな私をドアを開けて待っていた。


「あ、ごめんね海斗くん! なかにいてくれてよかったのに」

「いえいえ……わざわざ来てくれたのにそんな……」


 彼はお辞儀して、また作り笑いを見せた。

 礼儀正しいが、やはり顔には疲れが見え隠れしている。

 私は手に持ったバッグを掲げる。


「頑張ってる海斗くんに、お夜食を持ってきました!」

「わっ……! わざわざすいません……あの、どうぞなかに……」

「いや、ここで大丈夫だよ」

「いえ、お茶出すので……掃除したし……」


 彼は言うなり、中に入っていく。

 どこか慌てた様子である。

 断ることもできずに、私はお言葉に甘えることにした。


 彼の部屋に入るのは、あの大掃除――というか引っ越し作業――以来、二度目だった。

 なんの気なく、部屋を見渡す。

 先ほど彼が言った通り、掃除はある程度されていた。

 ただ、違和感が私の頭を掠める。

 以前の掃除の際、時間が足りずに開け切れなかったダンボールが、以前とまったく同じ場所に置かれているのである。

 ガムテープからして、開封された形跡もない。

 この前来た状態からなにも進捗していないのだ。


 まだ、置きっ放しなの……?


 彼が引っ越してきて、もう随分経つ。


 さすがに……おかしい……


「海斗くん」


 私は、キッチンでグラタンを温め直そうとしている海斗くんに声をかける。


「はい?」

「本当に、元気なの……?」

「……」


 海斗くんの動きが止まった。

 心の声もしない。

 静寂に満ちていた。


「……正直に言うと、元気ではないです」


 彼は、私に背を向けたまま、ポツリと呟いた。


「でも、これは俺が向き合わないといけないことだから……」


 その背中は小さくて、声の代わりに大きな感情を伝えていた。

 私は、密かに眉根を寄せてしまう。


 向き合うって、なんだろう……


 受験とは、一般的には向き合うものではなく、挑むものである。

 合格という少ない席を、同年代と奪い合う競争。

 そんな熾烈な戦いに、向き合うという言葉を使うだろうか。

 それこそまるで、義務かのように。

 私の頭には、疑問符が浮かんでいた。

 彼の視線の先にあるのは、受験だけではないのかもしれない。

 それこそ、親の跡を継ぐかどうか、みたいな……


「紅茶で、いいですか……」


 彼が、こっちに向けてきいてくる。

 手に持っているのは、市販のティーパックセット。

 引っ越しのときに突っ込まれていたものだ。

 私が頷くと、彼はお湯を注いで持ってきてくれた。


 透明な水に溶け出すように、茶葉から橙色が広がっていく。

 その様子を眺めていると、彼に少しでも言葉をかけてあげないといけない気がした。

 年上として、姉として、彼を大事に思う者として……


「……実は私ね、向き合うべきことから逃げてばっかりの人生だったの」


 海斗くんは立ち止まって、私を眺めた。

 私は、彼のくれた恩を返す気持ちで、一言ずつ紡いでいく。


「いつか戦わないといけないとわかってても、怖くて向き合えなくて……でも、君が来てくれたお陰でようやく少し立ち向かえたんだ」


 人の悪意に負け続けた日々は、彼の存在で変わった。

 昔なじみの男の子の前に、気持ちを寄せる相手の前に、彼は命の恩人だから。


「もし、海斗くんがなにかに押し潰されそうで悩んでるなら、きっと言ってね。どんなときでも、私は味方でいるから」

「……うん」


 こくんと頷く。

 それはまるで七歳の頃の海斗くんに戻ったようで。

 どこか愛おしくて、どこかいたたまれなかった。

 唐突に、レンジが高い機械音を鳴らした。

 温めが終わったらしい。

 私は軽く手を叩いた。


「よし、夜食を食べよう! もう絶対おいしいからね!」


 海斗くんはもうひとつ頷いて、レンジから皿を持ってくる。

 湯気を立てるグラタンを、彼は私の前で一口食べた。


(……あったかい)


 小さな呟きが届く。

 夜は静謐さを保ったまま、ゆっくりと更けていった。

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