第三章 あのときのキモチ

第28話 出かけて海鮮丼(1)


「う゛っ゛」


 重たい声が脱衣所に響く。

 全裸の私が発した呻きだ。

 足元では、デジタル数字が冷酷で残酷な血の通っていない数値を突きつけている。


「やはり、だいぶ増している……」


 体重増加は、全世界三十五億人女子共通の敵である。

 羽になりたい。

 私はこのとき、そう切実に思っていた。

 もしくは空気。理想は無。

 とりあえず〇キロカロリーの存在になりたい。

 それは願いというより、妄想であった。

 そんなこと、無理なことはわかっている。

 ついた脂肪は、燃焼させねば消えぬのだ。


「男子高校生に合わせてたら……むべなるかな……」


 元より、私は周囲の女子たちよりは体重を気にしないタイプだった。

 若かったからというのもあるし、暴飲暴食しない限りはそれほど太る体質でもなかったし、なにより人の内面を気にするのに必死で外見なんかに構っていられなかったというのもある。

 とにかく、人の目につかないことが急務だったのだ。

 なら、そんな私がなぜ今更になって体重計なぞに乗ってしんどみを感じているのか。

 それはひとえに、海斗くんと出かける予定があるからだった。


 無口で、照れ屋で、脳内が騒がしい十七歳の現役男子高校生。

 絢辻海斗くん。

 実家が開業医のお金持ちで、本人も医者を目指している御曹司だ。

 タワマン住み。

 一人暮らし。

 そんな世間と隔絶した存在の彼がなぜか私の家にご飯を食べに通うようになり、早数ヶ月が過ぎた。

 そして、その間に私は会社に啖呵を切って、無職になった。

 人生なにが起こるかわからないものである。

 現在失職中の私は、失職ハイとでも言うべき状態にある。

 全能感に支配され、毎日がエブリデイなのである。

 会社員時代、遊びにいくのは美波と一緒のときだけだったから、貯金もそれなりにある。

 だから、海斗くんにお出かけのお誘いをしたのだ。

 そして今、ハイがローになっているわけだ。


 貧乏アパートの脱衣室は野外かと思うほど寒いので、カチコチにならないうちに服を着る。

 勿論、彼に体を見せる予定などないのである。

 夏に海に行くわけでもないし、真冬の今はどうせ厚着だし、そもそも彼とは毎日のように顔を合わせているのに、今更多少太っただの痩せただの言っても関係ないことは、わかっている。

 わかっているのだけど……それでも、いいカッコがしたいと思ってしまうのは、なぜだろう……

 思考のなかに浮かんでくる漢字一文字を、私は頭を振って追い払った。



   ◇ 



「おはようございます……」


 翌日八時。

 海斗くんが家にやってきた。

 いつもは夜に来ることばかりなので、朝日のなかに彼の姿を見るのは新鮮だ。

 彼は、普段私の前で着ているよりも綺麗めなコーディネートをしていた。

 お出かけ用なのだろうが、服から靴まで新品のように輝いているし、すべてしれっとブランド物である。

 私は部屋中を走りながら恐怖する。

 恐らく、彼が身に纏っているチェスターコートの値段だけで、私の着ている服を賄えてしまうだろう。


「すいません……来るの早かったですか……?」


 彼は部屋と私の惨状を前に呟き、私は駆け抜けながら首を振る。


「ごめんね、ちょっとまだ準備できてなくて……座ってて……!」


 時間は約束通りであり、悪いのはすべて私なのだ。

 彼は言われた通りにダイニングの椅子に座る。

 愚かな私は、その前で喜劇俳優のようにあちこち動く。

 車内で食べるおやつなど、作ってる暇はなかった。

 というか……


「うぅ……化粧に時間かけすぎた……愚か……」


 ここぞというとき用に買っておいたデパコスを持ち出したのがいけなかったのだ。

 出かける日に新しい化粧品を試そうというのは、いつの時代でも敗因たり得る。

 いつもと違うことをしたらミスするんだから。

 でも、これをしないという選択肢も私は持ち得なかった。

 なぜって、現役高校生の海斗くんは、毎日ピチピチお肌の十代女子に囲まれているのである。

 労働と寝不足が祟った荒れ地のような素肌を見せるわけにはいかないだろう!

 いや、泣いてボロボロの顔さえ見られてるので、今更ではあるのだが……


「化粧って……なんでするの……?」


 机から無邪気な質問が飛んできた。

 私が、このなかになにが入るねんというくらい小さい鞄の中身を整理しながら振り返ると、海斗くんが無垢なる視線を私の顔に向けていた。

 恐れが的中した。

 きけ、全女子よ。

 これが十代男子の常識である。


「いやほら、美しくいたいみたいなそういう感じよ。はは……」


 私はどこかのCMできいたようなことを口走る。

 一般女性のほとんどは、どちらかというと『隠したい』が本心だとは思うけれど、彼の幻想が壊れるかもしれないので言わないでおく。

 女のすっぴんとは、サンタさんのようなものだ。

 彼らが気づくまでは秘匿されねばならぬ存在なのだ。


「でも、普段のお姉ちゃん、そんなに化粧してないよね……」

「……? まぁ、そうね」


 確かに、これまでは目立たないことが肝要だったのでナチュラルめではあったけど。

 彼が私の顔面にじっと視線を注ぎ始める。


「な、なにかな……?」

「いえ……」


 なら、その純粋な眼差しをどこか別のところへ向けてほしい……

 大変気まずくて、目を天井やらキッチンの奥やらにやってしまう。

 すると、彼の心から声がきこえてきた。


(どう違うのか……あんまりわかんないや……)


 あっ……

 私は肩の力が悪い意味で抜けてしまった。

 っすよね……

 脱力である。

 考えてみれば、そりゃ予想のついたことだった。

 十代男子が、化粧の良し悪しなどわからんのが普通だろう。

 勝手に気合を入れて、そのせいで彼に現在進行系で醜態を晒している私は、馬鹿者としか言いようがない。

 そんな風にひとり静かに落ち込んできたそのとき。

 またひとつ、ダイニングから声がした。


(……あ、お姉ちゃんだからわからないのかな。昔から美人だったし、毎日綺麗だし)


 ふぇあっ⁉

 思わず奇声を上げそうになったが、心の声である。

 顔に熱がこもっていくのを感じる。

 まずい、このままでは謎に赤面してる人になってしまう……


「よ、よしっ! 準備できた! 行こう! 出発! オーッ!」

「わっ……お、おー……」


 勢いで押した。

 海斗くんを急かして、前を歩かせる。

 その間に、火照りを冷ます。

 初めての彼との遠出がこんなに慌ただしく始まるとは思ってもいなかった。



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