第29話 出かけて海鮮丼(2)


 そんなこんなで私だけが恥ずかしいスタートを切ったこの旅で、我々はまず移動手段を手に入れる必要があった。

 自家用車など限界貧困無職が所有しているはずもないからだ。

 そのため、我々が最初に向かった先は、駅前にあるレンタカー屋さんであった。

 事前に予約していた車に乗り込み、軽い説明を受ける。

 運転するのは久しぶりであるが、たまに買い物用途で使っていたためそれほどブランクは感じなかった。

 ただ、今日は海斗くんがいるので、保険は入れるだけ入っている。

 店員に見送られ、私たちはついにドライブを開始した。

 カーナビに設定したゴールは、三崎港。

 目的は勿論、三崎のマグロである。



   ◇ 



 銀色のボンネットが太陽を照り返している。

 平日の高速道は空いていて、突っかかるところもない。

 彼の高校が、近々で創立記念日があるとのことだったので、その日を狙って言ったのだ。

 天候もよく、暖か。

 こんな日は仕事なんてほっぽりだして、ピクニックに行きたいと働いているときは思っていたが、今まさにその夢が叶っているのである。

 そう思うだけで、口元がニヤけてしまうくらい最高の気分だった。

 これぞ無職の楽しみ。

 自由の身の特権である。

 ただ、同時に問題もひとつ……


「……」


 海斗くんがほとんど喋らないのだ。

 たまに脳内で、


(あの車、昔お父さんが乗ってたな……)


 とか、


(いい天気でよかった……)


 とかほのぼの呟いているのがきこえてくるので、機嫌は悪いというわけではない。

 彼にとっては、これがデフォルトのようなのである。

 ただ、私には気まずい空間であった。

 ここまで話さなかったかしらと、私は今まで重ねてきた食卓を思い出す。

 そして気づいた。

 物理的には、ほとんど喋ってなかったわ、と。

 食事中の脳内が騒がしすぎて、イメージが引っ張られていただけなのだ。


「えーっと……海斗くんって来年十八だよね」


 私は案内標識を確認しながら水を向ける。

 三崎まであと一時間。

 楽しく過ごしてもらわねば……


「あ、はい」

「免許取りたいとか思う?」


 私の質問は、彼の実家を知っているという文脈から来ている。

 富裕層向け住宅街の一画を占める絢辻家にはとても大きな車庫があり、なかにスポーツカーのような高級車が何台も停まっていたのを覚えていた。

 お父さんが大の車好きなのである。

 多分、免許さえ取ればそのうちの数台は海斗くんの思うがままになるはずだ。

 いや、むしろ新車が買い与えられるか。


「……あんまり」


 しかし、海斗くんは首を傾げていた。


「あ、そうなの……お父さんに取れとか言われない? 車はいいぞぉ、みたいな」


 言いそうなタイプなのだ。

 実際、彼も頷く。


「うん、言う。昔、別荘の土地で運転させられたし……」


 別荘。

 唐突に出る富裕層言葉には、いつまで経っても慣れない。

 ドキドキしながら相槌を打つ。


「そ、そうなんだ。どうだった……?」

「なんか……低かった。地べた這ってるみたい。あと、エンジンドンドンみたいな」


 彼は思い出すように眉をひそめて、フロントガラス越しの空に視線を飛ばす。


「お父さんはなんか、いい車だろうこれ、みたいに言ってたけど……正直よくわかんなかった……」


 そうだろうね。

 その言い様に思わず笑ってしまう。

 エンジン音をドンドンって表現するところに、興味の無さが如実に現れていた。


「じゃあ、海斗くんはなにが好きなの?」

「……わからない」


 彼は首を反対に傾げる。

 今度はもっと不可解そうだった。


「今は……あんまりないかも。昔はなんか、あった気がするけど……」


 低体温な子だ。

 私は改めてそう思った。

 心の声さえあまりきこえてこない人なんて、会ったことがなかった。

 物静かで、ミステリアスで。

 食事中の興奮がなければ、彼のことはなにも分からなかったかもしれない。


「昔は虫が好きだったじゃない?」

「あぁ……そうだった」

「よくカードゲームやったよね」

「あ、やりましたね……懐かし……」


 そして――会話が途切れた。

 走行音だけが車内を満たす。


「……この車、静かですね」


 そうなの。


「エンジンドンドンしないからね……」


 だから気まずいのよね。


「あー、音楽とかかけていいよ。確か無線で繋げられるはずだから」

「あの……実はさっき試してたんですけど……」


 彼は助手席でなぜか困っている。


「スピーカーが壊れてるみたいで、ラジオも音楽も音が出ませんでした……」

「そっ……か……」


 レンタカーこの野郎……

 私は帰りにクレームを入れることを決める。

 逃れられないとわかると、さらに沈黙が苦しくなった。

 どうしましょう、会話が続かないわ。

 せっかく海斗くんと出かけてるのに、夕食の場じゃないと、こんなに話すのが難しいなんて……


「……お姉ちゃんは」


 海斗くんからの問いかけだ!

 私は蜘蛛の糸を垂らされたがごとく、前のめりに飛びついた。


「う、うん! なに⁉」


 なんでもきいてっ⁉


「あの……俺が来てて、迷惑じゃないですか……?」

「へ……?」


 思わぬ一言に横目で彼を見てしまう。

 彼は申し訳無さそうに両手を結んでいた。


「急に押しかけてご飯食べさせてくれって……最近なんか、毎日お世話になってるし……今日なんか旅行まで連れて行ってくれて……」

「そんな全然! 私がしたいからしてるんだよ。むしろ来てくれて感謝してるくらい……」


 私の言葉は尻すぼみになっていく。

 彼の顔が、浮かないままだったからだ。


「……なんで今さら?」

「その、ずっときくの怖かったので……お姉ちゃん、俺の心読めるみたいだし……」


 思わずブレーキを踏まなかったことを褒めてほしい。

 私の口内は、一瞬にして干からびた。


「な……んで……」

「その、不思議な人だと思ってたんです。お姉ちゃんがうちに通ってる頃から、ずっと」


 爆弾発言をしたにしては、海斗くんは普段通りだった。

 平静すぎて、違和感を覚える。

 あれ、バレてるわけじゃない……?


「俺がなにか言う前に、気持ちをわかってくれるような感じがあって……だから、すごい繊細な人なんだろうなって思ってた……」


 やっぱりだ。

 心が読める、は比喩らしい。

 私はホッとしながら、回顧する。

 高二で心の声がきこえるようになったあとも、私はしばらく絢辻家に通っていた。

 当時の私は、この体質にまだ慣れておらず、心の声に対して返事をしてしまったりしていた。

 きっと、海斗くんはそのことを言っているのだろう。

 それにしても、彼はその当時七歳であるはずだった。

 やはり、聡い子だ。


「だから俺、お姉ちゃんなら全部わかってくれるかもって思って……押しかけたんです……」


 彼は訥々と語っていく。


「でも、もしそれでお姉ちゃんに気を遣わせてたら嫌だなって、思ってて……こんな暗い奴、一緒にいて面白くないと思うし……だからその、本当に迷惑だったら、言ってほしいです……」


 すいません……と彼は最後に頭を下げた。

 車は、着々とインターチェンジに近づいていく。

 普通の人間は、他人の心が読めない。

 他人の心が読めないなら、相手の言葉が真実かどうか、百パーセント知ることはできないのだ。

 それでも、信用してもらうには……

 相手が安心するまで、何度も言葉にするしかない。


「……私は、海斗くんが来てくれて毎日が楽しくなったよ」


 素直な気持ちを、何度も。


「いつもおいしそうにご飯食べてくれて嬉しいし、その時間が幸せだから。むしろ君が来なくなっちゃったら泣いちゃうよ、私」

「……はい」


 顔色から言って、信じきれてなさそうである。

 私は口を曲げて考えた。


「んー、じゃあ、嫌なことがあったらちゃんと言うって約束するよ。ないと思うけどね。どう?」

「あの……うん。よろしくお願いします……」


 彼は頭を下げる。

 私たちの車は料金所を抜け、ついに三崎の街へ足を踏み入れた。

 一般道に出ている間に、海斗くんが思い出したように呟く。


「あ……好きなもの、あった」

「お、なになに?」

「お姉ちゃんのご飯は、好きです……」

「……そう、ありがとう」


 この子、寡黙なくせして、結構恥ずかしいことを言うのよね。

 私は顔色を変えないように、運転に集中する。


(あと、お姉ちゃんも……)


 ブレーキを踏まなかった私を誰か褒めてくれ。



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