第26話 飛び出してヒレステーキ(3)


 私は、この決着をつけて彼の元へ戻ると約束した。

 だから、上司たちの言う通りになっちゃいけないんだ。


(は……?)


 怒気を含んだ声が、克樹さんの心からきこえてきた。

 自分の膝を強く掴む。

 今までは、この声をきかされるのが怖くて、この悪意に耐えられなくて、誰のどんな頼みでも折れてきた。

 でも、今日は違う。

 これからは、違う。

 こんな私でも、帰りを待ってくれてる人がいるんだ。


 私は、自分を励ますように、何度も心のなかで連呼した。

 負けない……

 負けない……

 負けない……ッ!

 私は、退職願を机に叩きつけていた。


「私はチームにも戻りません。課にも戻りません。私はここを辞めます」


 私の突然の動作に、彼らは思いの外目を丸くしていた。

 課長が虚を突かれた様子で口にする。


「お、お前……周りの迷惑ってものを考えて――」

「周りは知りません。私の人生は、私が決めます」


 心の底から、ぐらつくマグマのような熱さが噴き出している。

 それは、高校一年以来失われていた勇気だった。


 気にするな。

 負けるもんか。

 私の人生だ。

 あの子が教えてくれたのだ。

 私の価値を。


「私は、貴方たちの都合のいいように振り回されるつもりはないし、たとえ他に雇ってくれる先がなくても、貴方たちと関わってるよりはずっとマシだ」


 自分の足で立ちたかった。

 勝手に人の考えを読み取ってしまうこの力の下でも、しっかり、普通に、生きていきたかった。

 そのためには、震える子鹿のような弱い自分を変えなきゃいけないんだ。

 私は深く息を吐いて、二匹の悪魔と対峙した。


「……法律上、労働者の私には辞める権利があります。あなたたちの誰にも、それは止められない。まだごねるなら、今から弁護士を呼んできます。どうされますか」

「んな……⁉」


(なに言ってやがんだコイツ⁉)


 課長が引いている。

 が、きこえていないフリをする。

 他人の悪意から、私は決別するのだ。

 怖いからと言って、苦しいからと言って、屈しない。

 私はもう、人の声には振り回されない。


「また、先ほどまで課長がされていたのは恫喝です。裁判沙汰になった場合、課長はまた別の課に飛ばされる気がしますけど、それでも止められますか?」


(野郎……調子に乗りやがって……)


 私は彼の燃え盛る怒りさえ無視して、最後通牒を突きつけた。


「もう一度言います。私はこの会社を辞めます。必要事項は書類に記入していますので、退職の処理はそちらで勝手にやってください」


 頭を下げることもなく、彼らに向かって傲然と言い放つ。


「お世話になりました」


 先ほどまで意気盛んだった彼らは、今や豹変した私を見上げるばかりだった。

 私は彼らに背を向け、会議室を出ていく。

 これでいい。

 私はやり切った。

 静けさの満ちる廊下に出て、脇目も振らず歩いていると、


「ちょ、待ってよ青葉ちゃん!」


 背後に、きき慣れてしまった男の声がした。

 粘っこい感情も流れてくる。

 振り向こうという気持ちも湧かない。


「ストレス溜まってんなら、俺話聞くよ? 青葉ちゃんにやめられたらちょー寂しいしさ。ねぇ、きいてる? 青葉ちゃん?」


 男は、無視し続ける私の肩を掴んでくる。

 黒い感情ばかりを伝えるその手を、私は思い切り払った。


「触るな、人でなし」


 声が止まった。

 目さえ合わせなかったため、彼の反応を知る由もない。

 しかし、もう他人の感情になど興味もなかった。

 私はそのまま、一度も振り返ることなく会社を後にした。



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