第25話 飛び出してヒレステーキ(2)


「ここなんですね、お姉ちゃんの職場……」


 海斗くんが、我が社の入居しているビルを仰ぎ見る。

 彼が私の通勤先の前にいる光景は、現実感がなかった。


「おっきなビル……」

「ただフロア借りてるだけだよ。しかも、見栄張ってるしね……」


 今日は祝日。

 学生である彼は当然休みで私服姿なのだが、我が社は祝日が休日であるということを知らないらしく、普通に出社日と規定されている。

 高校生とともに出勤するのは人の目が気になったので、今日は午前休を取っていた。


「ありがとね、海斗くん。助かったよ」


 正直な気持ちだった。

 ひとりでは、ここで足がすくんで動けなかったかもしれない。

 鞄のなかに入っている封筒に思いを馳せる。

 これから、戦場に赴くのだ……

 生唾を飲み込む私の隣で、海斗くんは力強く保証してくれた。


「お姉ちゃんなら、大丈夫。俺、待ってますから」


 頷く。

 待っててくれる人がいる。

 応援してくれる人がいる。

 その安心感は、私の背中を強く押してくれた。

 私はついに彼から離れて、通い慣れたビルへ入っていった。



   ◇ 



 会社は平常通り、祝日返上で動いていた。

 私は、自席のある開拓チームではなく、元の課へと向かう。

 オフィスは、いつもと変わらず静かで、なおかつ従業員たちのすさんだ心の声で騒がしかった。

 私は、直属の上司である課長のデスクまでまっすぐ向かい……硬直した。

 課長の前に、思わぬ先客がいたからだ。


「な、なんで……」


 思わず口走ってしまう。

 そこにいたのは、このしみったれ課には似合わぬ、見るからに垢抜けた男。

 克樹さんだった。

 パソコンのキーを叩く音ばかりが響くオフィスで私の声が届いてしまったのか、彼らは私に視線を向けた。


「おい、小町。ちょっと来い」


 課長は開口一番、そう言って立ち上がり、会議室の並ぶ方向へ歩いていく。

 私は震えた。

 敬称がない……

 それがどういう意味か……

 私は、鞄を置く暇もなく、その後についていくしかなかった。



   ◇ 



「なに、お前やめる気なの?」


 空き部屋の椅子に乱暴に座るなり、課長は私に問うてきた。

 禿げた額に鋭い視線が組み合わさり、どこまでも高圧的に見える。


「あの……なんでそれを……」

「庄野くんからきいた」


 課長が隣を顎で示す。

 なぜか克樹さんがそこに同席していた。

 克樹さんは肩をすくめて釈明する。


「恵輔さんがなんかワタワタしてたから事情きいたら、青葉ちゃんの代わり探してるっていうからさ。課長さんはまだ知らないっていうし、困るだろうなぁと思って報告入れただけ」


 まるで、当たり前のことをしたとでも言うように、彼は澄まし顔であった。

 異常である。

 別部署の人間が先に私の上司に話を入れるのも異常だし、この場に臨席していること自体おかしな話だった。

 課長でもそれはわかっているはずだ。

 しかし、克樹さんは摘み出されず、むしろ課長の味方側として今ここにいる。

 社員の脱獄を引き止められるなら、誰でもいいということだろう。


「先に俺に連絡いれんのが筋ってもんじゃねぇの?」


 課長は机を指で叩き、イライラを隠す様子もない。

 普段はハラスメントにならないよう抑えている言葉遣いも、今は荒かった。

 パワハラ研修の成果は今いる従業員たちのために発揮されるもので、会社から離れようとする奴には適用されないということだろうか。

 実に合理的だ。


「すいません……なので、今日退職願を……」

「いらねぇよそんなもん」


 彼は私の弁解を一蹴する。

 いらねぇってなんなんだ、とは思った。

 退職するしないは労働者側が決めることで、管理側がつべこべ言う権利はない。

 そう冷静に回る頭とは裏腹に、私は顔を上げられなかった。


 今、課長の声は二回きこえた。

 心の声と、実際の声。

 片方は精神的に、片方は物理的に怒鳴りつけてくる。

 声が聞こえることによる、不安、恐怖、居心地の悪さ、居場所のなさ、苦しさ。

 そして、みるみる澱んでいく心……


「お前、この会社に育ててもらったんじゃねぇの?」


 一人の時間が欲しい。


「ろくに会社に貢献できなかったくせに、一丁前に辞められるとでも思ってんのかよ!」


 この場所から逃げたい。


「ここ辞めたところで、お前みたいな気弱な奴はどこにも必要とされねぇからな? 社会はそんな甘くねぇんだよ!」


 今すぐ、清潔な世界に行きたい。

 海斗くんの元へ帰りたかった。


「青葉ちゃん、考え直したら? せっかくチームにも馴染んできたところでしょ。青葉ちゃんすごい仕事してくれてたから、急にいなくなったら恵輔さんもみんなも困るよ?」


 ここしかないというタイミングで、克樹さんが口を挟んだ。

 アメとムチ。

 古典的な手法だとはわかってるけど、営業のエリートがやると、それは伝家の宝刀と化した。

 ただ、私にも特殊技能はあり、裏の意図は読もうとせずとも読めてしまった。


(どうせ辞めらんねぇだろ。こんなチョロそうな女、逃しちゃ勿体ないわ)


 不躾な感情に散々踏み荒らされた心は、限界を迎え始めていた。

 呼吸の回数が増え、頭が締め付けられるように痛い。

 ギュッと握った手のひらが、震えている。


「ほら、退職願はこっちで捨てておくから。チームに戻ろう」


 克樹さんが優しい口調で手を差し出す。

 私は、震える指で鞄のなかから退職願の封筒を取り出した。


 戻る……

 そう、私は戻らなきゃいけないんだ。


「……嫌です」


 海斗くんの元へ。




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