第24話 飛び出してヒレステーキ(1)


 仕事を辞めるのは、大変だ。

 退職願は出さないといけないし、退職したあともかかる税金の目処をつけないといけないし、退職時にしないといけない手続きを調べておかないといけないし……

 なにより、上司に退職する旨を言い出さなければいけない。

 私という人間を知る者なら誰でも想像できる通り、辞職の意向を示すことが私にとって一番高いハードルだった。

 噂によれば、自分の前に辞めていった先人たちは、上司と何回も面談させられた挙げ句、色々と同調圧力のかかる説得や小言や嫌味を言われていたらしい。

 来る者拒まず去る者めっちゃ追う。

 恐ろしい会社に入ってしまった。


 とはいえ、相手は既に辞める決意をした人間である。

 大概のことはきき流せるのだろう。

 面談の間さえ抜けてしまえば、あとは自由の身だから、なんなら耳栓でもつけていればいい。

 でも、声が直接届いてしまう今は、予想がついていた。

 一回一回の面談が苦痛に満ちるだろうということが……

 それでも、向き合わなければ。

 そうでもしないと、私はこの会社から離れられたとしても、自らの特性に永遠に苦しめられることになるのだから。


 辞めた後の生活上の確認をすべて終えてしまい、いよいよ逃げ道のなくなった日。

 私はまず恵輔さんに、会社を辞めるつもりであることを話した。

 私の制度上の上司は、現在も元の課の課長なのだが、実際に影響が出るのは開拓チームなので、口頭で先に知らせておくことにしたのだ。


「あ、そうなの?」


 今日も今日とて空き会議室で、恵輔さんは眉を上げる。


「辞表はもう出したの?」

「あ、それはこれからで……」

「何月に終了?」

「あ、三月いっぱいを考えてます」

「うーん、三月かぁ」

「はい……ご迷惑をおかけしますが……」

「そうかぁ……困るなぁ……」


 その言葉に少し身構える。

 が、彼は内心でも「困るなぁ……」とまったく同じセリフを吐いて、もう私の穴を埋める計算を始めていた。

 つまり、これは嫌味ではなく、本当にただ困っているのだ。

 サバサバしていて、一で十を知り、仕事のことにのみ頭を回す。

 代わりに他人の感情にも関心はないようだが、その思考回路に慣れた今となっては、彼は声のギャップを恐れる必要がなくて、安心感さえあった。


「そうだ、有給は? 全部使うでしょ? 実働何日まで?」

「その辺りは、辞表を出してからになるかと……」

「おけ。しっかし、本当に困るなぁ……青葉ちゃん優秀だったから……」


 腕を組んで顔をしかめるその態度

 彼からの忖度しない素直な評価は、唯一嬉しいことだった。


「誰かいい子いない? 青葉ちゃんの引き継ぎできる子」


 そう言われるだろうと思っていた。

 私の頭に、ひとりの女子社員が浮かんでいる。


「えと、後輩がいますね……うちの課に……」

「優秀?」

「コミュ力はすごいです」

「採用」


 できる男は即決する。

 私は心のなかで築山さんにエールを送った。

 業務量多くて叫ぶ未来が見えるけど……

 多分貴女なら馴染めるから、頑張って……



   ◇ 



 その日の夜。

 ダイニングテーブルで退職願を書く私を、海斗くんが興味津々で覗き込んでいた。

 手元には奉書紙の便箋、封筒、そして、退職願の書き方説明書と、例文が書かれた罫線付きの下敷きが並んでいる。

 ネットで取り寄せた、退職願キットである。

 ――ここ一番の決断に!

 表紙に書かれたキャッチコピーが、真に迫っていた。


「世の中には、こういうものもあるんですね……」

「私も初めて知ったよ……」


 歴戦の社会人でもそうそう知らないと思う。

 私も、退職願の書きかたをググったときに偶然出てきたのを目に止めただけである。

 世の中、なんでもあるんだな……


「……ついに辞めるんですね」


 彼はボソッと感想を述べる。


「うん。もうリーダーには言ったし、後戻りはしない」

「俺、やっぱり中までついていきましょうか……?」


 彼の目からして、本気で言っていた。

 苦笑いして、首を振る。

 気持ちはありがたいけれど、そんなことをしたら職場で伝説になりそうである。

 そもそも、外で待っていてもらうこと自体、大の大人のくせに恥ずかしいことなのに。


「ううん。大丈夫」


 私は、例文に従って辞表を書き進め、最後に代表取締役の名前を記入して筆を置く。

 これで、すべての準備は整った。

 震える手を少しだけ握る。

 あとは、勇気を出すだけだ。

 他人の声に向き合う、勇気を……



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