第23話 追いかけてクリームシチュー(3)
「なんで……」
当然の言葉が口をついて出る。
「今日は、お父さんの誕生日だから……一応、実家に帰っとこうかなって……」
海斗くんは首を傾げて言った。
その言葉で思い出す。
そう言えば、今朝のチャットでそんなことをきいていたな。
今日のディナーへの恐怖に頭がいっぱいで、すっかり抜け落ちていた。
彼は不安げな表情を浮かべて私を眺めていた。
「なんか水とか入りますか……? あ、いや、買ってくる……」
そう言って、自販機の元へ身軽に飛んでいき、一本のペットボトルを手にすぐに戻ってくる。
私は、申し訳ない気持ちになりながらも、それを受け取った。
冷たい水を口にすると、高ぶっていた感情が、少しずつ落ち着いていく。
「あの、ほんとに大丈夫……?」
「うん、もう平気……ありがと……」
答えながら目元を手の甲で乱暴に拭うと、化粧の跡が皮膚に移る。
しまった。
化粧をさらに崩してしまった。
海斗くんの前で醜態を晒していることに、私は今更恥ずかしくなってきた。
次の電車が、駅に侵入してくる。
彼の実家方面へ向かう線だ。
「今日、お出かけだったんですよね……? なにかあったんですか……」
「う、ううん。ちょっと……そう、パニクっちゃっただけだから。それより、海斗くんお父さんのところ行くんでしょ? ごめんね、引き止めちゃって」
「いや……あの、放っておけないです……」
彼はブンブン首を振る。
「でも……」
「お父さんは、今度帰ればいいんで。俺、ついてきます。お姉ちゃんの家まで」
彼の言う間に、向かいに止まった電車は、再び発車してしまう。
目の前の彼を見上げる。
(このまま帰らせるなんてできない……)
私が頷くまで、断固として動かなさそうだった。
「ありがとう……ごめんね……」
私は、もう一度目を擦ってから、彼の促すまま椅子から立ち上がった。
◇
そのときの私は、それほど危うい印象だったのだろう。
海斗くんは、玄関どころか家に入るまで私についてきてくれて、椅子に座らせるとお茶まで入れてくれた。
彼がティーバッグの位置を把握していることに、再会してからの年月が少し思い起こされる。
我が家で温かな飲み物を口にすると、ようやく人心地がついた気がした。
呼吸もずっとしやすい。
「お姉ちゃん、ご飯は食べた……?」
私は首を振る。
レストランでは緊張していて、ほとんどなにも喉を通らなかった。
「食べてないかな……海斗くんは……?」
「俺は、実家で食べる予定だったんで」
彼も首を振る。
腹を空かせているのに突き合わせている。
益々心苦しくなる。
「冷蔵庫に、シチューがあるんだ……お昼作った残りだけど」
「あっためます」
言うが早いか、彼はパッと立ってキッチンへ歩いていく。
本当は彼を実家に向かわせたいけれど。
彼はまるで飼い主を補佐する介助犬みたいに、私について離れない決意を固めているようだった。
◇
グツグツと音がする。
この家のキッチンに私以外の人が立つのは、初めてだった。
新鮮な気持ちで、海斗くんの背中を眺める。
苦しさは、時間とともに幾分安らいでいた。
彼は慣れない調子で動き回ってから、温め直したシチューを持ってきてくれた。
お皿に白い液体がなみなみ注がれていて、少しだけクスッと笑ってしまう。
不器用な愛情が現れていた。
「ありがとね。いただきます」
「いや、俺が作ったわけじゃないんで……いただきます……」
二人して頭を下げて、食事を摂り始める。
とろみのある暖かなクリームソースは、悪意の波に凍えていた私の心をゆっくりと溶かしていく。
高級なレストランで変な男と食べる料理より、自宅で海斗くんと食べる何気ないシチューのほうが、ずっと幸せで、おいしかった。
ようやく気づいた。
私は、彼と食卓を囲むこの時間が好きなんだ。
だから、この時間が失われることを怖がっていたんだ。
「……海斗くん」
だから、知っておかないといけなかった。
彼がまもなく私から離れてしまうのか、否かを。
「はい?」
「この前、女の子と歩いてたけど、あれ彼女?」
「ブ――ッ⁉」
彼はシチューを吹き出した。
いつも無表情な彼の珍しい反応に、少しだけ驚き、そして悲しくなる。
そんなにうろたえるってことは、つまり……
「え、見てたんですか……?」
「あの、偶然ね。買い物してたら見かけて、彼女かなぁって」
「ち、違う……! 伊藤さんは彼女じゃないです……!」
彼は勢い込んで否定する。
本当に珍しいことだった。
「……本当に?」
「本当です。あの子、小学校の同級生なんですけど、なんか好きな人がいるらしくて、プレゼント選ぶのを手伝ってって言われただけで……!」
な……るほど……
彼女の声をきいている私は、海斗くんよりも状況を理解する。
それ、選んだプレゼントが自分に返ってくるやつじゃん。
甘酸っぱ。
「それで、なら俺もその、見返りにアドバイスをもらおうと思って……」
「なんの?」
「……お姉ちゃんへのプレゼントです。いつもお世話になってるのに、なにも返してないのは……と」
予想外の一言に私は固まる。
え、あのデート、私へのプレゼント選びだったの?
でも、なんで金物屋に……あ、フライパンとか?
いやそれでも、金物屋は女性へのプレゼント買う場所じゃないでしょ……
人の心配してたら、ブーメランになって戻ってきた気分だわ……
「でも、伊藤さんにアドバイスもらっても、結局全然ダメで……なんていうか、選ぶのが子供っぽいものばっかだったから……相手、大人の人だって言ってるのに」
そうなんだ。
喉まで出かかった言葉を飲み込む。
喜びが声に紛れて出てしまいそうだったからだ。
情けない。
はしたない。
私は、確かに喜んでいる自分を感じていた。
そうか、あの子は彼女じゃないんだ。
しかも、彼は私に贈り物を送ろうとしてくれていた。
彼女が原因で彼が離れていくことは、今のところはないはず……
スプーンを持つ手が、小刻みに震えていた。
それほど、きくのが怖かったらしい。
「ていうか、俺のほうはどうでもいいです。お姉ちゃんのほう……大丈夫なの?」
彼はシチューにろくに手を付けていなかった。
それこそ医者のように、私の顔色をじっと観察している。
(もし倒れたら、俺が介抱しないと……確かマニュアルには……)
ここで倒れたいという不埒な衝動を抑え込む。
彼には借りがあるのに、そんな迷惑はかけられない。
本気で心配するだろうし。
「今日はお仕事じゃないよね……土曜日だし、綺麗な格好してるし……デート?」
海斗くんは、ポツポツと観察眼を披瀝する。
そう、あれは傍からみたらデートに他ならないだろう。
鋭い。
でも、私は首を振る。
あれをデートだとは認めたくなかった。
「少し、付き合いだよ。でも、ちょっと色々怖くなって、逃げちゃった」
第三者からは要領を得ない説明だろう。
せっかく親身になってきいてくれているのに、こんなボカした言いかたしかできない自分が申し訳なくなる。
でも、彼から注がれるのは変わらず、私の身を案じる視線だった。
「お姉ちゃん、頑張りすぎてないですか……」
彼の一言が胸に染みる。
そんな気遣いをされたのは、社会に出てから一度もなかった。
今まで会ってきた誰もが、社会に揉まれて、自分ひとりを守るしかなくて、外見も、心のなかも、優しくはなかったから。
いつしか、それが当然だと思っていた。
人のために動ける優しい人がこの世にはいるということを、すっかり忘れていた。
「俺、この街に来たとき、実はすごい寂しかったんです……それで、お姉ちゃんに会ったら元気になるかなって思って。でも、お姉ちゃんは俺よりずっと疲れてて……」
そう、あのときは暗い顔をしていたはずだ。
いつの日か、ふらっと倒れて二度と起き上がれなくなるような弱々しさだったと思う。
「それでも、お姉ちゃんはご飯を作ってくれて……暖かくて、嬉しくて、救われた気持ちになった。だから、今度は俺が、苦しいものからお姉ちゃんを逃してあげたい」
「……」
「俺に、なにができますか?」
彼の眼差しは真剣だった。
無口で照れ屋な君が、まっすぐに気持ちを伝えて、私の力になってくれようとしている。
私には、その想いだけで充分だった。
充分に力になった。
「……なら、一緒にコートを取りに行ってくれるかな」
「コート……?」
「お店に置いてきちゃったの」
深く息を吸う。
「それで、いつか私に決心がついたら、ついてきてほしい」
彼からもらった力を勇気に変えて。
私は口にする。
「会社の外まで」
辞める。
あの会社を。
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