第22話 追いかけてクリームシチュー(2)


「あの、お姉ちゃん、なにかあった……?」


 テーブルに並ぶスーパーのお惣菜を前に、彼が上目遣いに尋ねてくる。

 その反応がくることは、惣菜を購入する時点で予想済みである。

 私は準備万端、用意していた返事を彼に告げた。


「なにもない……と言ったら嘘になる……」


 あの酢豚からこの惣菜ラッシュは、誰がどう見ても異常事態だろう。

 隠しおおえるとは思えないので正直に答えるしかないのだ。


「しかし、なにがあったかはきかないで……」

「は、はい……」


(一体なにがあったんだ……)


 彼はコロッケに箸をつけながら脳内で震えている。

 怖がらせている。

 しかし、私は思いの外ダメージを受けていたらしい。

 彼へのフォローがなにもできなかった。

 早く回復しなければ、このままでは、飯炊き女の役割さえ果たせなくなる。

 そうしたら私は……彼にとってどんな価値があるのだろう……



   ◇ 



 料理も手につかないのに、仕事ができるわけがない。

 形だけはPCに向き合っているが、ショックを受けた私の手は無意味な動作ばかり繰り返している。


「青葉ちゃん、さっきから同じ文字列ばっかり打ってね?」


 後ろから爽やかな男の声をかけられて、振り向く。

 いつの間にか、営業部のエースがにこやかに笑っていた。


「克樹さん……」

「なんか最近、上の空じゃね? ダイジョブそ?」

「す、すいません……」

「いや、俺に謝ってもしゃーないっしょ。恵輔さんはキレてっけど」

「え、怒ってましたか……」

「裏でバチ切れしてたわ」


 あ、あの恵輔さんが……?

 想像すると、怖い。

 それは、克樹さんの冗談かもしれなかったけれど。

 彼は思いの外真面目な顔をしていたので、判断がつかなかった。


「うん。やっぱ疲れてんだな」


 彼は独り合点すると、断りもなく私の肩に手を置いて言った。


「息抜きが必要なんだよ、青葉ちゃん。今週土曜、東京駅集合ね」

「え? あの、なぜ……」

「別に、飯食い行くだけだけど」

「え……いや、困ります……」

「え〜? この前飲み断っといてそりゃないっしょ〜」


 彼は大声で言う。

 職場に響くので、私は恥ずかしくなった。


「今度は飯だし、そんくらい許してよ。青葉ちゃんが元気になってくんないと、最後は俺のほうにも影響出るしさ」

「ぁ、ぅ……」

「んじゃ、十八時に」


 ダメだ、断らないと……

 しかし、勇気を出そうとしたときには、彼は既にいなくなっていた。

 断る隙も、もらえなかった……


 取り残された私は、呆気にとられているうちに、気づいた。

 大きな要求を先に見せておいて、最後に妥協したフリをして、本命の条件を呑ませる。

 それは、有名な営業の技だった。

 さすが営業部のエース……

 私は、そんな人間に勝てるのだろうか……



   ◇ 



 土曜日。

 愚かな私は、言われた場所にノコノコと向かってしまっていた。

 同僚とは、職場で毎日顔を合わせるのだ。

 夕飯で一度分のサシ飲みを回避できるなら、安いものとする他なかろう……


 東京駅。

 説明不要のセンターオブジャパンであり、新幹線が何本も止まり、まっすぐ前方には皇居が構えているという、そんな気後れするような駅舎内に洗練された格好の克樹さんが待っていた。

 彼は、爽やかに手を振ってきた。

 私は、今すぐ帰りたくなった。


 会話もそこそこに、彼は予約してあるという店に私を連れていく。

 ビル街を抜けた先にあるその場所もまた、東京駅にあるにふさわしいお洒落な店であった。

 シャンパンゴールドな店内。

 ひっくり返って吊るされてるワイングラス。

 談笑する、タワマンに住んでそうな客たち。

 コートをお預かりされながら、私はキョロキョロしてしまう。

 主にキッチンの様子が気になるだけなのだが、彼は私が興奮していると思ったらしく自慢気に言った。


「いいっしょ、この店」

「あ、はい……」


 オーナーでもないのに、なんで克樹さんがイキってるんだろう……

 私は死んだ魚のような心で、席につく。

 克樹さんがメニューを見ることもなく頼んだ食前酒が、透明なワイングラスを淡い金色に染めていく。

 夜景が煌めく様は、素直に綺麗だと思った。


「乾杯」


 グラスがぶつかる軽い音を合図に、彼が他愛のない世間話をし出した。

 そのトークは、軽妙で、洒脱で、手慣れている。

 きっと、幾人もの女性の前で披露してきた兵士スキルなのだろう。

 そんな数多くの城を落としてきたはずの彼が、なんで私のような湿気た花火みたいな陰キャ女を狙っているのか。

 理由は簡単。

 彼が遊びたかったタイミングで、気弱でチョロそうな私がちょうどやってきたからだ。

 なんて運が悪いのか……

 私は、話をきいているフリをしながら終始へこんでいた。

 よりにもよって、こんなトラウマを思い出すような人に狙われるとは……


 私が高校時代に作った最初で最後の彼氏も、顔が良くて、経験豊富で、性欲が強かった。

 彼は、付き合ってすぐに私を部屋に呼んだ。

 私も当時は阿呆であり、イケメンを捕まえたことで浮かれていて、誘いにホイホイ乗った。

 そのときだった。

 人生で初めて、他人の心がきこえたのは。

 思い出すのも、苦しくなる。

 盛りのついたその声は、まるで野生の獣だった。


「……青葉ちゃん?」


 ハッと、意識が現在に戻ってくる。

 目の前にいるのは、性欲垂れ流しの男子高校生ではなく、性欲垂れ流しの社会人だと思い出す。

 彼は、返事が帰ってこなくなった私を心配していた。


(お、酒が回ってきたか?)


 表面上は。


「すいません……ちょっとぼぉっとしてました……」

「体調悪いん? どっかで休む?」


 優しい声を奏でながら、対面から手を握ってくる。

 ゾッとするような感情が一気に流れ込んできた。


「……っ!」


 思わず、その手を払い除けていた。


 私、この人やっぱりダメだ……

 一緒にいたくない……

 今すぐここから離れたい……!


「か、帰ります……」

「え、おい!」


 制止も聞かずに、背を向ける。

 店内にいる人間たちが私に注目しているのを感じながらも、半ば駆けるように店を飛び出していた。

 口元を手で押さえながら、上品にライトアップされた丸の内を走り抜ける。

 コートを着ていないことさえ、駅に着くまで気づかなかった。


 私は、急いで電車に乗り込む。

 追いかけられないか不安で仕方なくて、ドアが閉まるまで外を何度も確認してしまう。

 時刻は十九時。

 車内はまだ帰宅途中の乗客がわんさかいた。

 ドア横に立っている人は、私の異様な様子を不審げに見ている。


 ――ダァシエリイェス。


 車掌の合図とともに扉が閉まって、ようやく私は息をついた。


 なんで、私だけがこんな思いをしなきゃならないの。

 込み上げてくる涙を必死に抑える。

 休日ではあるものの、電車のなかはやはり人間たちの暗い感情が渦巻いていた。

 この特性に、逃げ場などない。



   ◇ 



 気づいたときには、最寄りまで辿り着いていた。

 ヘロヘロになって車外に出て、一番近くにあった椅子に崩れるように座る。

 もう我慢などできなかった。

 抑えていた涙が、止めどもなく溢れていく。

 息がうまく吸えない。

 半ば過呼吸だった。

 こんな体で、社会で、どうやって生きていけばいいのか。

 今の私には、見当もつかなかった。

 私の前に横たわる未来は、他人の声に覆われて真っ暗だ。


 もう嫌だ……

 暗い……怖い……

 誰か、助けて……!


「えっ……お姉ちゃん……?」


 私は、化粧もボロボロに落ちているであろう顔を上げる。

 海斗くんが立っていた。



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