第21話 追いかけてクリームシチュー(1)


 みさきさん事件の翌日。

 まだ立ち直っていない女がここにいる。

 小町青葉、二十七歳。

 独身。


 彼が別の女の名前と私を取り違えたとき、確かに私は取り乱してしまった。

 しかし、ベッドで一晩ふて寝しつつよくよく考えたら、私には取り乱す権利さえないと気づいた。

 元々、私は彼にとってなんでもない女だからだ。


 ある日突然家の前に現れた彼をこれ幸いと飯で籠絡し、飯炊き女の地位を得ることで通ってもらっているだけである。

 そう。

 通って『もらっている』のである。

 なぜか。

 彼は、タワマン住みのお金持ちであるからだ。

 私がご飯を作らなくなっても、彼は有り余る実家の資産で飯を食えばいいだけ。

 なんなら、どうして今もうちでご飯を食べてくれているかわからないくらいだ。

 翻って私はどうか。

 彼のいない生活 = あと数分で死ぬ顔に逆戻りである。

 この関係は、一見ウィンウィンのように見せかけて、実のところ歪で不均衡なのである。


 しかし、一番私の頭を悩ませていた問題は、そんな駆け引き的な話ではなかった。

 そもそも、私は自分の心自体よく理解できていないのだ。

 なぜ、彼に女性の影が見えたことで傷ついているのか。

 なぜ、こんなにしょげているのか。

 腑に落ちていなかった。


 美波には恋だのなんだのと冷やかされているけれど、人に言われて、


「あら、私、やっぱり彼のこと好きなのかしら……」


 なんて誘導されるような、そんな甘ったるい若さは――悲しいことに――とうに失われている。


 実生活が寂しいから、彼に依存しているだけなのか。

 それとも、なんらかの特別な気持ちが私にあるのか。

 見極める必要があった。

 海斗くんのこれからの人生に、悪影響を及ぼしたくないから。

 侘しい年増女の慰めものにはしたくないから。

 そんなわけで、彼の存在は今、私のなかで最も重大な問題であった。


 ところで、今日は休日であった。

 街では、若いカップルがそこかしこを歩いている。

 恨めしいことである。

 全員、今日のディナーは日高屋になれ。

 雰囲気もへったくれもない殺伐さのなかで淡々とバクダン炒めを食え。


 そんな小さすぎる呪いをかけている私は、いつもと変わらず駅向こうのスーパーに買い出しに向かっているところだった。

 今日、海斗くんは夜まで予備校に詰めるらしいので、今晩は完全にひとりである。

 ひとりの食卓は、今となっては張り合いがなかった。


 どうしようか……適当に済ませるか……

 そんなことを考えながら歩いていると、向かいの駅前に見知った影があることに気づいた。

 海斗くんである。

 例のこだわりのなさそうな私服を着て、地図の前に立っている。


 その途端、重たかった心がフワッと浮くのを感じた。

 あ……海斗くんだ……

 これから予備校行くのかな。

 それとも、遊びに行くのかな。

 話しかけても、いいかな……


 火に近寄る羽虫のようにフラフラと近寄ろうとした、そのとき――

 目の前の光景に、私の足が止まった。


 海斗くんが、電話をしながら駅の奥に手を振っている。

 同時に、彼の元へ誰かが駆けてくる。

 女の子だった。

 海斗くんと同年代くらいの、若くて愛らしい女性。

 ふわふわした上着に身を包み、この寒いのに短いスカートを履いて、海斗くんをパッチリした瞳で見上げている。


 二人は互いに笑顔を見せ、二言三言交わすと、街のほうへ歩き出した。


 長いこと起動していなかった女の勘が、にわかに前頭前野に警告を出す。

 あれが『ゆみ』さんでは……?

 気づいたときには、私は二人の後をこっそり追い始めてしまった。



   ◇ 



 何やってるのかしら私は……

 電柱の裏に隠れながら、私は今更自分の行動に呆れている。

 彼らが振り返りそうになっては物陰に逃げ、周囲の通行人に注目を集めながらも、尾行をやめられない自分がいた。


 それは決して、ウブでかわいい話ではなかった。

 こうしていれば心が読めるんじゃないかと、考えているのだ。

 そうすれば、すべてハッキリするはずだ。

 しかし、街は人で賑わっていて、声が紛れてしまっている。

 静かなところに行ってくれれば……

 いや、静かなところに行ってほしくは……

 数メートル後ろで葛藤するおばさんのことなど知る由もなく、彼らは街を歩いていく。


 彼らは今しがた小さな雑貨屋を出てきたところだった。

 仮称ゆみちゃんは度々道端の店を指差し、海斗くんが首を振る。

 行く当てはなさそうだ。

 それもまた高校生のデートっぽい。

 また、海斗くんは必ず彼女より道路側を歩くようにしていた。

 カッコつけているのだろうか……

 もはや、彼らの姿のすべてが苦しかった。

 あぁ、海斗くん……

 私を置いて行かないでおくれ……


 駅からだいぶ離れた。

 人が随分少なくなって、私は姿を隠すのが難しくなる。

 そこで、海斗くんはピタリと立ち止まった。

 気づかれたかと肝が冷えたが、彼が視線を注いだのは、目の前に建つ激渋な金物屋だった。

 所狭しと商品が詰め込まれた、昭和感溢れるカオス。

 ふわふわパンケーキの対義語である。

 まさか……海斗くん……

 女の子連れで、そんなしっぶい店に行こうと……?

 そのまさかであった。

 彼はゆみちゃんに何事か言うと、率先して店のなかへ入っていった。


 私は思わず自分の苦境も忘れ、店のすぐそばに駆け寄る。

 すると、初めてゆみちゃんの声がきこえてきた。


(うわ、なにこの店……怖……)


 あぁ、ドン引きしている……

 そうだよね、十代のデートで金物屋はもうアウトだ。

 このままじゃ、海斗くんも愛想を尽かされてしまうのでは……


(こんな怖いお店に入れるなんて……海斗くん、かっこいい……///)


 ……途端に、自分の体温がスッと冷え込んだのを感じた。

 私は、不思議に凪いだ心のまま、その場を離れる。


 人混みに戻ってきた辺りで、ようやく私の思考は形になり始める。

 あぁ、恋だ。

 ゆみちゃんは、海斗くんに恋をしている。

 海斗くん側はどうあれ、ゆみちゃんの感情は疑いようもなかった。


 本来の目的地であったスーパーに差し掛かったことに気づき、無意識にカゴを手にする。

 いつもの店内BGMが、先ほどまでの空気との落差を覚えさせる。


 現役JKに、勝てるわけはない。

 いや、そもそも、勝つとか負けるとか言っていること自体がうぬぼれている。

 高校生からしたら、十歳上の異性などおじさんおばさんである。

 私はただの飯炊きおばさん。

 彼には、もっと年の近い、お似合いの人がいる。


 私は、ブロッコリーを手に取りながら、ため息をついてしまう。


 ……でも。

 ……なら。

 この傷ついてる心は、どう処置すればいいのだろう……



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