第20話 瀕死で酢豚(2)


 家に帰って、しばらく寝ていると、少し楽になった。

 ベッドから起き上がって、ボサボサになった頭を撫でつけながらキッチンへ向かう。

 黒酢酢豚だ。

 黒酢酢豚を作るぞ。

 しかも、今日は家庭料理としてのそれではなくて、大きな豚バラのブロック肉をまるっと使う、真っ黒で大迫力の酢豚を作ろうと思っていた。

 所要時間は、なんと三時間。

 これぞ早退のなせる業である。


 エプロンをつけてキッチンに立つと、やる気が出てきた。

 海斗くんを驚かせたい欲にまみれる。

 先ほど瀕死状態でなんとか買ってきた豚肉は、とりあえず塊のままフライパンで焼いてサッと脂を落としてやる。

 その後、紹興酒、ネギ、八角、ローリエなんかを肉と一緒に鍋に突っ込んで、煮る。

 可哀想になるほど煮る。

 ここに三時間かける。

 すると、煮込まれ切った塊肉は、竹串が刺さりすぎて心配になるほどトロトロになるのだ。


 このトロトロの権化と呼んでも良い肉をさすがに食べやすい大きさに切ったあと、溶き卵と片栗粉をまぶして揚げる。

 この長大な手間をかけることで、外はカリッとした衣で、中は快感を伴うほどの歯切れの良さを実現することができるのだ。

 この状態で、煮ている間に作った黒酢餡を絡め、白髪ネギを乗せたらフィニッシュだ。

 岩のような立派な肉にはツヤツヤで真っ黒なタレが照る……

 これはビジュが強い。

 海斗くんも大満足だろう。


 腰に手を当て、ふんと鼻息を鳴らしたちょうどそのとき、ちょうどインターホンが鳴った。

 海斗くんが来たのだ。

 数時間前まで苦しんでいた不調も忘れ、ワクワクしながら彼を出迎える。

 反応が早く見たかった。

 早速椅子に座らせて、傑作の一皿を彼の前にサーブする。

 この酢豚は、ナイフとフォークでいただくのである。

 彼は目を丸くした。


(うわ、高級フレンチみたい……家でこんなの作れるんだ……)


 求めていた反応をもらえて、感謝に耐えない。

 その言葉のために私は今日一日を生き抜いたのだ。


「召し上がれ」

「い、いただきます……」


 彼は手を合わせて、真っ黒な肉塊にナイフを入れる。

 すると、その刃先はゼラチンでも切るかのようにスッと下まで落ちていった。


(うおぉ……なんだかドキドキするぞ……)


 恐る恐る、フォークで持ち上げる。

 口に運んだ瞬間、


(ウ……ッ!)


 海斗くんは静止した。

 机のなにもないところに視線をやったまま、固まっている。

 ……え、窒息してる?


(……マッ!)


 続きの声が届く。


(……スギッ!)


 お騒がせである。

 私は一度上げかけた腰を戻す。

 彼は再起動したようにモグモグ口を動かすと、二切れ目に着手し始めた。

 表現方法が紛らわしかったが、とにもかくにも喜んでくれているようである。

 それだけで、救われた気持ちだった。


「すごいですね……こんなの、どうやって作るんですか……」


 夢中になって酢豚を切り崩しながら、彼がボソッと尋ねてくる。


「見た目ほどは難しくないよ。時間をかければ」

「俺でも、できますか……?」

「それは……どうだろ……」


 彼の部屋を掃除したときの惨状を思い出すと、率直に言うと無理そうである。

 が、作ることに興味を持ってくれたのは大いなる進歩なので、口にはしない。

 そのあとも、感動し切ったのか珍しく饒舌になった彼と、料理談義に花を咲かせた。



   ◇ 



 楽しい夕ごはんの時間のあとには、黒い餡が皿が残るばかりだった。

 デザートにりんごがあることを思い出した私は、切って出してあげようとキッチンへ向かう。

 あぁ、幸せだった。

 こんなに満足する時間は久しぶりだ。


 胸のなかを深い安らぎに満たされながら、包丁でりんごを剥いていく。

 ウサギさんなんかにしちゃったりなんかして〜。

 今朝の調子が嘘のように頭すっからかんで浮かれていると、不意に海斗くんが私に向けて声をかけてきた。


「あ、そうだ。ゆみさん……」

「へ……?」


 太陽に近づきすぎた者は、翼をもがれ、地に堕ちる。

 二人の間の空気は、一瞬にして凍りついた。

 調子に乗って舞い上がっていた心が、急転直下奈落へ叩き落されていく音がする。


「ゆみ、さん……?」


 あの……

 私は、小町青葉ですけど……


「あ……」


 彼も、しまったとばかりに恥ずかしげに俯いてしまう。

 もし第三者がこの光景を眺めていたら「あぁ、先生をお母さんと呼んでしまうあれね」と笑うことだろう。

 しかし、私は知っていた。

 彼のお母様の名前は『葵』であることを。

 葵という漢字は、どうあっても、ゆみとは読まないということを。

 彼の家族に、ゆみという名の人間はいないことを……


「海斗くん……ゆみさんって……誰……」


 包丁を手にきいていた。


「ひ……っ⁉」

「誰……?」


 怖がらせないよう、笑顔は絶やさず尋ねる。


「ひぇ……いや、その……間違えました……」


 赤い顔をした彼は、気まずそうに逸らして黙りこくってしまった。

 誰と、どう間違ったのか。

 どうして間違ったのか。

 そこのところを詳しくききたかったのだが、心の声が謝り倒していたので、諦めてキッチンに戻る。

 私は先ほど作ったウサギの羽をむしり取りながら落ち込んだ。

 美波の予言……下手な占いより当たるじゃない……



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