第19話 瀕死で酢豚(1)



「先輩、顔色が良くなりましたね」


 築山さんが、給湯室のケトルに水を入れる私の顔を覗き込んでいる。

 今日の私は、元の課に戻っていた。

 移動前に引き継ぎきれなかったスポット作業を築山さんに教えていたのだが、飽き性の彼女は給湯室で茶をしばこうと言い出したのだ。


「そ、そうかな」

「はい。あと数日は生きられそうって顔してます」


 それは顔色悪いんじゃない……?

 口にしようとしたところで、廊下の奥を課長が通り過ぎたので、なんとなく口を閉ざす。

 騒がしくしていると怒るのを覚えているからだ。


 築山さんの言う通り、私を取り巻く職場環境はだいぶ良くなっていた。

 辛かった飲み会がなくなり、恵輔さんの思考回路にも慣れたことで、開拓チームの居心地が良くなってきたからだ。

 築山さんはシンクに寄りかかって足をぶらぶらさせながら言う。


「いいな〜、先輩。楽しそうだし、イケメンに囲まれてて。私なんか毎日おじさんたちのつるつる頭ばっか見てますよ」

「怖いものなしよね、築山さんは……」


 いつ当人たちが来るかわからない場所でそんな讒言、口が裂けても言えないわ。

 私は彼女の恐れのなさに半分以上憧れつつ、お湯を沸かそうとケトルの取っ手を掴む。


 そのときだった。


(誰あの青葉とかいう女! うっざ!)


 パッと手を離した。

 今、私の名前がきこえた……

 ケトルの取っ手から……


「どうしたっすか?」


 築山さんは不思議そうに私を覗き込み、覗かれた私は焦りに気づかれないように首を振る。

 今のは彼女の声ではない。

 知らない人間のものだった。


「いや、ちょっと静電気で」

「ふぅん?」


 動作も、言い訳も、不自然だったのだろう。

 訝しげな築山さんの目から逃れるため、私は覚悟を決めて、もう一度ケトルを手に取る。

 声が、流れ込んできた。


(なにあいつ、克樹くんの誘い断ってんの。調子乗ってるわ……クソ女が……)


 自然、呼吸が荒くなってきた。

 悪意が私を汚染していく。


 私の特性は、人の心がきこえるだけではない。

 物に染み付いた強い感情まできき取ってしまうのだ。

 電車の吊り革、同僚のマウス、お店のティーカップ。

 私の身の回りには、触れるのが恐ろしいものが山ほどあった。


 私は不意に訪れたパニックを落ち着かせようと苦闘しながら考える。

 克樹さんから飲みに誘われたあのとき、会話をきいている人がいたのかもしれない。

 狭い職場だ。

 誰がどこできき耳を立てているか、わからない。


「……ほんとに大丈夫っすか? また過呼吸?」


 築山さんは、いよいよ本格的に心配げな顔をしていた。

 首を下げて謝る。


「最近なかったんだけどね……ごめん……」

「いいっすよ。休憩室行ったほうがいいんじゃないすか?」


 彼女は私の不安定さに慣れていた。

 提案も的を射ている。

 油断していたこともあって、これは、ちょっとやそっとでは終わらなさそうだ。

 私はもう一度頭を下げて、給湯室を出た。



   ◇



 結局。

 私は、体調不良で早退せざるを得なかった。

 休憩しようが、仕事に集中しようが、不意打ちで喰らった憎しみが頭を占めるのだ。

 帰りの電車に乗っている今も、声が残響のようにガンガン鳴り響いて止まらない。

 人様に対する悪意でさえきき苦しいのに、直接私に向いた怒りなど、到底耐えられるものではなかった。

 四六時中、耳元で罵倒されているようなものだ。


 私は午後の空いた車両に一人座って、息を整える。

 こんな日は、つり革や手すりは絶対に掴まないように注意する。


 昔から、やっかみを受けることは多かった。

 あの女は男を弄んでいると身に覚えのない陰口を叩かれることも、指の数以上は経験がある。

 原因は、正直に言えば、私の外見がキレイめだからだ。

 もちろん芸能人ほどではないし、学校や会社で一番とかいうレベルでさえない。

 本当に、まぁまぁなほうだ。

 それでも、因習深い村のような教室や、人の噂話くらいしか娯楽がない職場では、男遊び認定するのに充分らしかった。

 なんの証拠もないのに。

 私の恋愛経験は、大昔に、たったひとりだ。


 電車が、最寄り駅に近づいていく。

 車窓の景色が、右から左へ飛んでいく。

 酢豚を作ろうと思った。

 こういうときの対処はたったひとつ。

 前を向くしかない。

 忘れるしかない。

 飲み込もうとしてくる悪意から逃げるように、私はそのことだけを考えた。



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