第16話 戦ってカキフライ(1)


 それは、打ち合わせから戻る最中のことだった。


「ちょっとコーヒー飲まない?」


 克樹さんが居室とは反対方向を親指で指して私に言った。

 その突き当たりには、大きめの部屋が扉を開けている。

 自販機や置き型のお菓子売り場がある、誰でも使える休憩スペースだ。

 私は困った。


「いやでも、仕事が溜まってて。早く片付けないと」

「休憩も大事でしょ。数分で終わるし。奢るから、ね?」


 恵輔さんも打ち合わせには同席していたが、別部署に用があると言ってすぐに別れてしまった。

 だから、今は私と克樹さんの二人だけ。

 私は、実のところ克樹さんが大変苦手であった。

 彼がなにかを提案するとき、有無を言わせぬ雰囲気を発するのだ。

 今も、彼の爬虫類のように光る瞳は、受け入れることを暗に強いている。

 私は、その圧の強さが怖くて頷いてしまった。


「うぃ〜。んじゃ行こうぜ〜」


 数分だ……

 我慢すれば、なんとかなる……



   ◇ 



「また恵輔さんに無茶な量振られてるん?」


 自販機前。

 克樹さんが缶コーヒーのプルタブを開けながら口にする。

 休憩室には他にも数人の社員がいたが、みなスマホを見たり寝たりで個別の時間を過ごしているので、話しているのは私たちだけだった。


「まぁ、業務量は増えてますけど、それはみんな同じですから」

「あーね。コンペ前マジきちーよなー。俺もカツカツだわー」


 なにを言っているのやら。

 私は、半ば無理やり奢られたコーヒーを手に、内心で顔をしかめる。

 仕事量の増加は彼も例外ではない。

 が、まだまだ彼の有り余るスペックの対応範囲内らしかった。

 毎日、サクッと百点満点の書類を作っては、サクッと定時で帰ってしまう。

 つまり、私に話を合わせているだけだ。


「つかさ、敬語で話すのやめない?」

「え?」


 見上げると、彼は当然のことを指摘したとばかりに肩をすくめた。

 チャラめのスーツである。


「もう来て一ヶ月近く経つっしょ。ここの文化にもそろそろ馴染まないと」

「うぅん……」


 わかってはいる。

 新規開拓チームで誰にでも敬語を使っているのは、私一人だった。

 部活のような部署で、頑なに敬語をやめない女という扱いになっていることは自覚している。

 ただ、その近すぎる距離感は、心が受け入れてくれなかった。


「それに、克樹さんって呼び方もさぁ〜。俺のほうが一個年下なんだから、なんなら呼び捨てでいいんすよ?」

「いやでも、このチームでは克樹さんのほうが先輩ですし……」

「固いなぁ、青葉ちゃん」


 愉快そうに笑ってから、彼は今思いついたかのように言った。


「あっ! なら、懇親会ってことでさ。今日とか暇? サシで飲み行こうよ!」


 最悪だ。

 考えうる限り最悪のものがきた。


「俺、青葉ちゃんともっと仲良くなりたいからさぁ」


 彼はまるで小学生みたいなことを言い出し、私は周囲の人間たちにサッと目を走らせる。


 心の声は現状きこえてこないが、きき耳を立てている人だっているはずだ。

 こんな場所でやめてほしい。

 人目が気になる。

 いや、むしろあえてやっているのかもしれない。


 私は、克樹さんが大変苦手だった。

 なぜなら、彼は恐らく、私の気弱さを本質まで見抜いているから。

 恐らく、人が断れない状況を意識的に作り出せる人だから。

 恐らく、蛇だから。


 私はとぐろを巻く爬虫類を前にしたネズミみたいな気持ちで、震えた。

 怖い。

 彼から放たれるプレッシャーが怖い。

 断ったときにきこえてくるであろう声が怖い。

 一刻も早く、この視線から開放されたい……


 承諾して逃げてしまおうとした、そのとき。

 ポケットに入れていたスマホがわずかに振動した。


 逃げる口実を得たように、私は急いで取り出す。

 ロック画面に届いていたのは、海斗くんからの通知だった。


 ――今日は何時に行けばいいですか?


 たった一行。

 それだけで、私は一気に安堵した。


 ……そうだ。

 私には帰る場所がある。

 待ってくれている人がいる。

 大丈夫。


 手汗が滲む。

 心臓が高鳴る。


 私は深く息を吸って、


「い……」


 口を動かした。


「嫌です……」


(あ……? 今、なんつった?)


 凍てついている。

 きこえてきた声色に私は身じろぎした。

 心の声とは裏腹に、それこそ声の主とは別人かのように、彼は快活に笑い始める。


「ちょ、嫌って! もっと言い方あるでしょ! 傷ついたわ〜」

「すいません……でも、今日は用事があるので……」


(気弱な女は言うこときいてりゃいいんだよ)


 この人の声は、暗くて冷たい。

 それが、初めて彼の声がきこえてきたときの、私の第一印象だった。

 今まで沢山の人の恨みや怒りをきいてきたけれど、彼の感情には温度がなかった。

 人に関心がなく、自分が利用すべきモノとして見ている。

 そんな声だった。


(チッ……ダル。まぁ、今じゃなくてもいいか。どうせ最後は……)


「用があるならしゃーないわ。じゃあ空いたら連絡してよ」


 飲み干した缶をゴミ箱に突っ込むと、彼は手を振って部屋を出ていった。

 か、解放された……

 壁に手をついて、ヘロヘロと崩れ落ちそうな体をなんとか支える。

 心臓が肋骨を折らん勢いで鼓動していた。

 怖かった。

 泣きそうだった。

 でも……できた。

 断れたんだ。


 実感が、全身にじわっと広がっていった。

 誘いを断る。

 そんな、ちっぽけなことだったけれど。


 私は深呼吸してから、手にしたままのスマホを開いて、今日の救世主に返信を打つ。


 ――いつもの時間で大丈夫。待ってるね


 私には大きな一歩だった。



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