第15話 余ってロールキャベツ(3)
「完っ全に、作りすぎた……」
私は寸銅鍋を前に、自分に呆れ果てる。
無心でロールキャベツを茹でた結果、私の前には到底一人分とは思えない量のロールキャベツスープが出来上がっていた。
ロールキャベツを巻いたところで止めればよかったのに。
そうすれば冷凍できたのに。
なぜ一つ残らず茹でてしまったのか。
ちなみに、モッツァレラチーズ入りである。
営業先との飲み会は二次会に続いたが、私は体調不良を訴えて参加を辞退した。
実際、真っ白な顔をしていたのだろう。
瀬尾がしつこかったくらいで、誰も無理に止めることはなかった。
そのあと、アルコールと精神的ダメージの波状攻撃でヘロヘロになりながら帰ってきた私は、ストレスのために意識が飛び、気づいたときには肉をキャベツで巻いたものを鍋でグツグツさせていた。
これが、チームを移ってからの日常茶飯事だった。
飲み会があるたびに、私のSAN値はゴリゴリ削れていくのだ。
そんなに辛いなら、飲み会断ればいいじゃん、と誰もが思うだろう。
もっともなご意見だ。
私の場合、他のチームメンバーが全員参加している上、飲み会で一番働くのは恵輔さんたちであることに、どうしても申し訳なさが立ってしまうのだった。
これを気弱と、世間は言うだろう。
直すべきだと、私も思う。
しかし、もう十年近く、人間たちの心の声を浴び続けた私は、声がなるべくきこえないような行動をとることが、体の芯に染み付いてしまっているのであった。
ともあれ、とにかく、まずは、このスープである。
どうやって処理をするか。
捨てるなどという考えはないが、今日から三食ロールキャベツを食べ続ける羽目になりそうな量である。
腕を組んで考えていると、頭にふと邪な考えが浮かんだ。
疲弊した脳みそは、熟慮する前にもう腕を動かしていた。
――気づいたら大量のロールキャベツを茹でていました。なにやってんだろうね。
送信ボタンを押す。
シュポッ。
その途端に、脳がようやく動き出す。
いや、私は今なにをした……⁉︎
夜遅い時間にチャットを送っても、若い子は気にしないのはわかってる。
私もそうだし。
ミュートだろうし。
まずいのは、そこじゃない。
これじゃあ、ただのかまってちゃんじゃないか!
さっきのセクハラオヤジと、今のメッセージは、なにが違う?
消すのだ……送信取り消しするのだ……!
その結論を出すまで、〇.五秒。
すでに飛んでしまったメッセージに指をやろうとしたそのとき。
一瞬で既読がついた。
それは、通知から反応したにしては、早すぎた。
まるで……まるで今まで私とのチャット画面を開いてた、みたいな……
とにかく、こうなってしまったからにはもう取り消しはできない。
固唾を飲んで見守っていると、彼の側から新規メッセージが現れた。
――ご迷惑でなければ、今から食べに行ってもいいですか。
私は呆気に取られた。
――ご飯食べてないの?
――食べました。けど、勉強してたらお腹が減って
悲しそうなスタンプが飛ぶ。
あぁ、なるほど。
夜食か。
――来な来な
私は短く返事して、彼を迎える準備を始めた。
変に動悸がする胸を押さえながら……
◇
「夜分遅くにごめんなさい」
彼が来た。
玄関先でジャケットを脱ぐと、中に着ていたのは、この前彼の部屋を掃除したときに見た部屋着だった。
無性に申し訳なくなる。
「そんな! むしろ私が呼んじゃったみたいなものだから! 入って入って」
私が促すと、彼はお邪魔しますと一言言って玄関を上がった。
時刻は夜十時。
高校生の補導時間の一時間前である。
それまでには帰さねばと、心に決意する。
彼はもうなにも言わずとも洗面所に行き、手を洗ってから椅子に座るようになっていた。
私は、パブロフの犬を思う。
少し意味合いは違うが。
「勉強してたの?」
席についた海斗くんの前に、スープ皿を置きながら尋ねる私。
そして、
「……え?」
薄緑に輝くロールキャベツに見惚れてきいてない海斗くん。
「いいよ、食べな」
私が許可を出すと、彼はいつものように手を合わせてから食事に手をつけ始めた。
私は、待て状態を解除された犬を思う。
この子、ところどころ犬っぽいんだよな。
彼は半分に切ったロールキャベツに喰らいつく。
(あ゛ぁ゛……や゛さ゛し゛す゛き゛る゛……酷゛使゛し゛た゛頭゛に゛コ゛ン゛ソ゛メ゛の゛味゛が゛染゛み゛渡゛っ゛て゛い゛く゛……)
受験勉強は大変よね、ほんとに……
自分の当時を思い出す。
ちなみに今更藤原竜也ごときでは驚かない。
(俺もロールキャベツの具材となってキャベツに包まれて眠りたい……こんなに優しい寝具など存在しない。今すぐメーカーはすべてのベッドをキャベツに変えるべきだ)
思想が強火だな。
癖も強いけど。
私も、自分用の皿に口をつけた。
温かくて優しい黄金色のスープが、アルコールで火照った体を落ち着かせていくようだった。
今日は本当に、疲れた。
これからもこんな日々が続くと思うと、気落ちする。
「……あの、大丈夫ですか?」
声がして顔を上げると、彼がまっすぐに私を見ていた。
目の奥に不安げな光を漂わせている。
「つらいことがあったら、言ってください……その、色々してもらってるし……話をきくくらいはできると思うから……」
気を遣われている。
気を遣わせている。
たまに、この子も声がきこえるんじゃないかと思うくらい、見抜いたことを彼は言った。
成長して、繊細な感性を持つようになったようだ。
または、私が誰でもわかるくらいひどい顔をしている可能性もあるけど……
「ちょっとね。仕事が大変でさ」
素直に告げる。
本来は、大丈夫と強がるべきではあった。
まだ高校生の男の子に、こんな社会の愚痴などきかせたくない。
けれど、それは鋭い彼を余計心配させるだけのような気がしたから……
「今日も遅くなるって言ってたし……残業ですか?」
「ううん。ちょっと飲み会。取引先のご機嫌を取るためにね」
彼は私の言葉をきいてしばらく黙った。
ロールキャベツが、室内灯を反射して静かに煌めいている。
「……お姉ちゃんも、昔は医者目指してましたよね。でもその、今のお姉ちゃんの仕事って……」
ずっと遠慮していたのだろう。
その質問は、一ヶ月前に再会してすぐに尋ねられてもおかしくないものだった。
私が絢辻の家にお世話になっていた当時、海斗くんはまだ七歳ほどだったとはいえ、私がなにをしに自分の家に通っていたのかくらいは知っていたはずだ。
だから、彼は、あえて今日まで言い出さずにいたのだ。
私の生活リズムがどう考えても医者じゃないと知りつつも。
私を傷つけてしまう可能性を考慮して……
大人の振る舞いだと思った。
そして、子供らしい優しさだとも思った。
「うん。キミのお察しの通り、今は医者どころか医療関係でさえない。ただの一般企業のOL」
「どうして、やめちゃったんですか……? その、失礼でないならききたくて……」
その質問に正直に答えたら、きっとキミは赤面して逃げていくと思うよ。
とはいえ、そうは言えないので、
「いや、なにも。ちょっと頭が悪かったからさ。普通に夢破れた感じで」
嘘ではないことでお茶を濁した。
実際、成績が足りなかったから医学部に進学できなかったのだ。
勉強ができなかった理由は特殊だったけれど、結果としてはそれだけの話だ。
スープをもう一度口に含むと、少し冷めていた。
大人になることも、このスープと少し似ているかも、なんて思ったりする。
時間が経つとあらゆる熱は冷めてしまうけれど、それはそれで飲み込みやすくなる。
「だからお父様とお母様にはちょっと申し訳ないなぁとは思ってるよ。あんなによくしてもらったのに」
「それは……! 大丈夫です……! どっちも世話焼きだったので、気にしないで……」
彼は首を横に振ってから、ポツリと呟いた。
「俺には、お姉ちゃんが辛そうな顔してるほうが心配です……」
それは真実味を帯びた表情で。
私はとても不安になった。
え……そんなに私の顔、酷い……?
今すぐ洗面台に言って鏡を確認したいぞ……
「俺……お姉ちゃんの味方になりたい……苦しんでるなら、助けてあげたい……」
「そ、そこまで……」
私の独り言を誤解したのだろう。
彼は慌てて言い訳するように付け足した。
「そ、その、俺は人を癒せる人になりたいから。そのために医者を目指してるんだから、その……」
「おぉ、かっこいい」
「すいません、でしゃばりました……」
彼は小さくなってしまう。
かわいい。
そしてちょっとかわいそう。
私は目の前のちいかわな生き物に、素直に感謝した。
「ううん、助かるよ。ありがとね」
「はい……」
「それに、キミはもう私を救ってくれてる」
「へ……?」
「こうやってご飯を一緒に食べてくれるだけで、私の力になるから」
「そう、ですか……」
「うん」
照れる彼は、食べかけのロールキャベツに口をつける。
静かな夜食会が再開された。
私もスプーンを再び手に取る。
彼と一緒に食卓を囲むだけで、荒んだ心が凪いで、心地よかった。
――――――――――――――――――
次回、カキフライです。
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