第二章 心が読めちゃうワタシ
第13話 余ってロールキャベツ(1)
私はあのとき、医者を目指していた。
十六歳。
その夏のこと。
医療ドラマに影響を受けるというどこまでもミーハーだった私は、同時に医療関係者が身近に一人もいないことに気づいて、細いツテを辿って綾辻家を訪ねるようになった。
当時の私は、怖いもの知らずで不躾で、世界は私を中心に回っているとさえ思っている、頭すっからかんのJKだった。
そんな元気だけがとりえの青臭い少女を、絢辻の人たちは歓迎してくれた。
お母様はおいしいご飯を作ってくれて、お父様は勉強の仕方から現場で起こった話など、たくさんの教育を施してくれた。
当時のことを思い返すと、感謝してもしきれない。
まぁ、その半年後くらいに、人の心がきこえるという不可思議な特性を手に入れてしまって、それどころではなくなるのだが。
そんなJK時代から丸十年。
今の私は、夢だった医療の医の字もないブラック企業の会議室でバカみたいにポカンと口を開けていた。
「し、新規参画ですか……?」
激しく動揺していた。
禿げ頭の前で。
激しく。
海斗くんとの日常から一ヶ月。
課長から個別に呼び出され、ついにクビかと半ばビクビク半ばウキウキしていた私に言い渡されたのは、思いもかけぬ着任話だった。
テーブルの反対側で偉そうに鎮座する枯れ山が、「うむ」と重々しく前に倒れる。
「近頃の小町さんの仕事ぶりはめざましいものがあるからね。新規営業先の開拓チームに入ってもらうのもいいだろうと、部長から直々に話があったんだよ」
「いやその……」
「なに? なにか気になることがある? え、まさか断る気じゃないよね? 部長からのありがたいお話だよ?」
ありがたくねぇよ。
その言葉を私は飲み込む。
心の罵声を恐れる私に、そんな喧嘩の売りかたはできない。
代わりに私は繰り返す。
「いやその……」
困る。
正直に言えるなら、たった二文字だ。
でも、私の口はビビってそのような物言いをしてくれない。
「あの……私にはちょっと荷が重いかとぉ……」
「……あのね。俺たちは小町さんを買ってるの。最近は残業もしないで仕事をこなすし」
早く帰りたいからである。
「ミスも少ないし」
早く帰れてるからである。
「職場の人間たちも、みんな顔色が良くなったって言ってる」
職場の人間たちと関わる時間が減ったからである。
「だから、小町さんにはもうひとつ上の仕事をしてほしいんだよ。もっと歯ごたえのある仕事が君を待ってる。小町さんも、そろそろデカい仕事したいって思ってるでしょ?」
考えたこともねぇ。
最悪である。
デカい仕事なんて私がもっとも求めていないものだ。
歯応えは九州のうどんくらいふにゃふにゃであってほしいのだ。
「すいません、私……」
これはさすがに断ろう。
勇気を出して私が口を開いたその時、
(ワガママも大概にしてくれよ……⁉)
怒声が頭のなかに鳴り響いた。
(ここで断られたら俺は部長になんて言やいんだよ! ここまで散々面倒見させられて、まだ迷惑かける気かよ!)
喉が閉まる。
心臓が高鳴る。
呼吸が荒くなる。
心の声は、ただの声ではない。
その怖さは耳元でなんの前触れもなく怒鳴りつけられるようなものであり、その感情は直接的に私の心に波及し、同じ闇の底まで引きずり込むのだ。
まるで虐待される子供みたいに、私はその怒声に怯え、心のなかでうずくまるしかない。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい……
「あの、やります……」
私は、いつの間にか心の向きとは反対の言葉を零していた。
◇
「大抜擢じゃないっすか!」
私が席に戻るのを期待げに待っていた築山さんに、今しがた課長から受けた話をすると、彼女は叫んだ。
「うん……そうね……」
「うわ、顔が鈴木その子みたいに白い。嬉しくないんすか? 超出世コースっすよ?」
私は曖昧に首を傾げる。
普通の人なら喜ぶのだろう。
新規営業先の開拓チームとは、各課横断でこれはという若手を集めた、いわば我が社の花形組織である。
ここにアサインされることは、社内でも期待をされている人材ということを示す。
しかし、私は嫌な予感がしていた。
ていうか、この子よく鈴木その子知ってたな……全然世代じゃないでしょ、私もだけど……
「正直言うと、私には荷が重い気がしてね……」
「あー、先輩のメンタルクソ雑魚ナメクジっすもんね」
彼女は歯に衣着せず言う。
そうです、私は少しでも塩対応されたら萎れてしまうクソ雑魚ナメクジです……
「でも大丈夫っすよ。最近の先輩はノってる感じあるんで。ウェイって感じでいけばやれますよ」
ウェイでいけるならナメクジじゃないのよ。
本当にノリが軽くて羨ましくなる。
「そうできればいいんだけどね……というか、そもそも私出世したくもないし、仕事が増えるほうが嫌なんだけど……」
「へぇ。なら、アタシが代わりに入りますよ」
「え、ほんと……?」
「課長の頭叩いてきてくれれば」
殺されるわ。
私は、仮に叩いた場合に職場に響く音と空気を想像して恐れ震え、彼女はカラカラと笑った。
「ま、あのハゲが私を代わりにアサインするわけないんで、先輩が頑張るしかないっすよ。……あ、噂をすれば帰ってきた。ファイティーン」
車輪付き椅子をガラガラと後ろに下げて、自分の席へ去っていく。
部長席から戻ってきた課長と目が合い、私も自分のPCへ視線を外す。
抑圧された暗い職場で、私の不安はこれから訪れる変化に入社以来最大レベルまで増大していた。
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