第10話 蕩けてすき焼き(1)
(い、一体なにがあったんだ……?)
課長が恐れ狼狽えている。
目はモニターに表示したプレゼン資料に注がれ、髪はフワフワと揺れている。
(小町さんがこんな資料をあげてくるなんて……)
最近の私の話だが。
職場の評価が上がり始めていた。
海斗くんの夕食を作るようになって、そろそろ二週間。
とにかく残業しないという一心で、飛んでくる業務を次から次へ打ち落としていったのだが、そんな日々は私に思わぬ副産物を与えていた。
声が気にならなくなったのだ。
以前までは、職場に渦巻く憎悪と罵倒の集合体が四六時中きこえたため、メンタルが引きずられていた。
しかし、今はとにかく尋常じゃない量を業務時間内にこなすことに夢中になっていて、声に気づかないことが増えていた。
おかげで私の精神的HPは削られる回数が減り、そのおかげでミスが減り、さらには細かい気配りも可能になったのだ。
さしもの課長も、唐突な私の変化に髪を震わせている。
すべてうまく行っている。
全部、海斗くんのおかげだ。
◇
「ところで、ご飯以外は大丈夫なの?」
食事中のことである。
おいしさのあまり心の中でイクラをネックレスにしようとしている彼に向かって私は尋ねた。
「ご飯以外……って?」
「ほら、掃除とか、洗濯とか。家事全般ちゃんとできてるのかなって」
私の問いかけに、彼は動きの少ない顔をさらに硬くした。
図星だと、誰が見てもわかる反応である。
「やっぱり……」
「いや、その、洗濯はちゃんとしてます、よ……!」
「つまり掃除ができてないってことね」
ぐぅ、と彼が鳴らしたのは今日は腹ではなく喉であった。
図星のなかの図星らしい。
「大丈夫よ。初めての一人暮らしだしね。それに学校も予備校も通ってるし、いっぺんに色々するのは難しいよ」
「はい……」
「でも、あんまり埃溜めちゃうとアレルギーになっちゃうかもしれないし」
「はい……」
頷きつつ、彼はどんどん沈んでいく。
先ほどまで大はしゃぎしていたイクラとサーモンの親子丼の前で。
その落差が、少しかわいそうになってくる。
「あー……掃除しに行こうか?」
「や、そ、そこまでは……」
私がつい口にしてしまった一言を、彼は手を振って遠慮した。
が、しばらくするとその腕さえ力無く落ちていく。
彼はついに白状した。
「実は……掃除どころか、まだ引越しの荷解きもできてなくて……」
「あら、そうなの? いつ引っ越してきたんだっけ?」
「一ヶ月前です」
「あぁ、それは」
そこそこ経ってるわね。
「やらないと、とは思うんですけど……帰ってくると元気がなくて……」
そう懺悔する彼に、私は社会人一年目を思い出していた。
あのときは、毎日ヘロヘロでほとんど生きる屍だった。
いや、むしろ生きてなかったな。
ほぼただの屍だった。
今はゾンビだ。
私は当時の苦境を思い返すうちに、今の彼と勝手に状況を重ねてしまい、なんだか不憫になってきた。
十七の身空で一人暮らしを始めるなんて、どれほど大変なのだろう。
もうおばちゃん助けたくなっていた。
「よし、やっぱり手伝うよ、荷物整理。海斗くんが良ければだけど」
力強く告げる私に、彼は目をやってからゆっくり机の上に視線を滑らせた。
悩んでいるらしい。
しかし、しばらくすると、
「ありがとう……お願いします……」
そう言って彼はひとつお辞儀をした。
◇
男の子の家に行くなんて、あのとき以来。
そう思いながら、私は駅前に嫌味なくらい高く聳える青い塔を見上げる。
土曜日。
私は先日の約束通り、海斗くんの部屋掃除を手伝うため、海斗くんの住むタワマン前にやってきていた。
海斗くんは知り合いで、さらに未成年なわけだけど、ほとんど大人の男と言って差し支えない。
そんな相手の住処に足を踏み入れようというのは、私にとっては勇気のいることだった。
あのとき。
初めて人の感情がきこえてしまった、あのとき。
人生におけるターニングポイントが起きた場所もまた、海斗くんとちょうど同じ頃の男の部屋だったから。
まぁ、部屋の大きさはまったく別というか、比べるのもかわいそうなんだけどさ。
やたらスタイリッシュな玄関ホールを抜け、呼び出し端末で海斗くんの部屋番号をプッシュする。
――あ……どうぞ……
ここ二週間毎日のようにきいている声がスピーカー越しに割れた音で届く。
同時に、貧民を拒むかのごとく閉まっていた分厚いガラスドアがスライドして私を金持ちたちの象牙の塔へ誘う。
なにを緊張しているのか。
今日の私は、海斗くんからしたら、ただの掃除のおばちゃんだ。
私だって、化粧すらろくにしていないのだ。
だから、なにもやましいことなど起こらない。
あのときのようなことも、起こるはずはないのだ。
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