それが礼儀?
明に続いて扉の向こうへ入ると、そこは圭太にとって異質な空間だった。
照明を当てられて無機質に光る黒い壁には、名前を聞いたこともないアーティストたちのライブや音源の発売を宣伝するポスターがびっしりと貼られている。
鼻につく湿っぽい匂いが、ここが地下にある空間だということを再認識させた。ホール内ではすでに同年代の男女が和気あいあいとしているが、独特の雰囲気のおかげでその光景すらも非日常に感じられる。
流れているのは、どこかで聞いたことのあるような海外のロックバンドの曲だ。
「ライブハウスって初めて来た」
「私も、こんな感じなんだね」
そんなやり取りをしながら歩みを進める。
入ってすぐ右側には何やら本格的な機材がずらりと並べられた卓の前で、ライブハウスのスタッフと思われる人たちが談笑をしていた。
更に進むと、左手には奥の棚に酒瓶やドリンクサーバーの並べられたカウンターがある。これが先ほど受付で案内されたドリンクカウンターだろう。
後ろで春奈が友達に話しかけられている。同じクラスの女子だ。
周囲を見渡してみれば、見たことのある顔が多い。まさか、ここにいるのはほとんどが同じ高校の同学年の人たちなのだろうか。
会話を終えた春奈が歩み寄って来たので、圭太はドリンクチケットを目の前に掲げながら尋ねた。
「何か飲む?」
「メニューって何があるの?」
当然ながら圭太にもわからない。
ドリンクカウンターの前に立ってみると、カウンターの上にメニューが載っていた。「いらっしゃい」と目の前にいる男が声をかけてくる。二十代半ばと見える、バンドをやっていそうな風貌だ。
「どうも」と返事をしつつ、後ろを振り返ってメニュー表がある旨を伝えると、春奈はドリンクチケットを唇の下にあてがいながら「う~ん」と唸り始める。
「じゃあ、ウーロン茶ください」
「はいよ」
返事をして一分も経たない内に注文の品が出てきた。
続いて圭太も注文をしようとしたのだが、ここでいらぬことを考えてしまう。ここは自分もお茶や水を頼むべきなのでは? と。
散々春奈の前で飲んできているので今更ではあるが、炭酸飲料や果実飲料を飲むのは子供っぽくてかっこ悪い気がしてきたのだ。周囲に同級生がいるとはいえ、二人きりでのデートということで意識してしまうのだろう。
「近藤君は頼まないの?」
「いや、頼むよ」
メニュー表を眺める。
ウーロン茶、オレンジジュース、メロンソーダ……お馴染みの名前の欄の後ろの方にそれはあった。
コーヒー。
圭太は即決した。
「コーヒーのブラックください」
「は~い。アイスかホットは」
「アイスで」
「近藤君ブラック飲めるの?」
春奈は尊敬というより、珍しいものを見るような目を向けている。もちろん飲んだことすらない。
「最近飲めるようになったんだよね」
「へえ~私飲めないから、すごいなって思って」
「何ていうか、苦いのがうまいみたいな?」
そう言って、圭太は軽い気持ちでコーヒーを口に含んだ。
「……っ!」
苦い。この世にこれほど苦いものがあったのかと思うぐらい苦い。
自分で言っておいてなんだが、苦いのがうまいなどあるわけがないのだ。苦いものは苦いのであってそれ以上でもそれ以下でもない。
今すぐに吐き出してしまいたいが、色んな意味でそれは不可能だ。
圭太は、普段使わない類のエネルギーを多分に消費して、コーヒーを喉の奥へと必死に追いやった。
「どう?」
春奈の純粋無垢な眼差し。
「香りがいいね」
「そうなんだ」
そして圭太はまた一口、苦いコーヒーを含む。そして誓った。
二度と見栄を張るのはやめようと。
今年一番のエネルギー量を消費して何とかコーヒーを飲み干した圭太は、トイレに行って口をゆすいだ。それでもまだ苦みが口の中に残っているような気がする。
春奈の元に戻ると、里香と二人で談笑しているところだった。こちらに気付いて片手をあげてくる。
「よう、近藤」
「よう」
「今日のライブ、客として来たからには、普段のあれやこれは一旦忘れて、お前のことも楽しませてやる」
「すごい自信だな」
「そんぐらいのもん持ってないとバンドのボーカリストは務まらないからな」
里香は得意げにそんなことを言う。
圭太は里香がどんな理由でバンドをやっているのかを知らない。もちろん音楽が好きだからというのはあるだろうが、彼女の言動や素振りからはもっと別の信念のようなものを感じるのだ。
何となくだが気になるので、その内聞いてみようと思う圭太である。
そんなやり取りをしている内に、一番手のバンドが機材をセットし始めた。ステージ上にメンバーが出て来て、音を出しながら、主にマイクの音量などを確認しているようだ。
それぞれの足下にあるスピーカーのようなものを気にしていて、入り口入ってすぐ右手の席にいたスタッフたちに向けて何かを身振り手振りで示している。
「おー始まった始まった。これ見るとライブって感じするよなあ」
そんな里香の言葉も、ギターやドラムの音に遮られてうまく聞き取れない。
セッティングが終わって全員がはけると、少しの間があってから照明が落ちる。一部から歓声があがり、客の何名かがステージの方へ寄って行くのが見えた。一番手のバンドを観にきた人たちだろう。
またどこかで聞いたようなバンドの音楽が流れ始める。大音量かつ重低音もかなり効いているので、家なら二秒で苦情がきそうだ。
そして、メンバーがステージへとあがってくる。他のメンバーが準備をしている中でボーカルがマイクスタンドにセットしてあったマイクを取り、喋り始めた。
恐らくは圭太と同年代の男子だろう。全体的にほっそりというよりは引き締まった身体をしていて、髪をしっかりとセットしてきている。
「どうも、『ハムとマヨネーズ』です。よろしくお願いします」
美味しそうな名前だな、と圭太は思った。
しかし、その次の瞬間にはドラムのカウントから演奏が始まる。バンド名には似合わない重厚なサウンドで、同じ高校生のものとは思えないような、しっかりと作り込まれている楽曲だ。
「~~」
「~~」
隣で何やら里香と春奈が会話をしているが全く聞き取れない。
その後、曲の合間のMCで今日演奏している楽曲がカバーであることが語られた。カバーとは言うがどう聞いてもコピーだ。独自のアレンジが加えられている形跡は全くなかった。
そして、そのままライブを観ていると、三曲目の最中に軽く肩を叩かれた。
春奈や里香とは逆の方を振り向くと、そこには雫が笑顔で立っている。目が合うと小さく手を振ってきた。
圭太も片手を上げて対応すると、雫は顔を寄せて、口元に手を添えながら大きな声で話しかける。
「一人で来たの?」
「いや、杉崎さんと」
「え~! すごい、やるじゃん!」
「そりゃどうも」
別に何もやっていないが、褒められたようなので礼は言っておく。
やれやれ、と思いながら何となく春奈の方を見ると目が合った。里香とセットかつ何故か無表情だったので思わず身体が跳ねてしまう。
「そっかそっか、なら邪魔者は退散するね~ばいばい」
「また学校で」
何となくだが、素早く退散してもらって正解だな、と思う。
その後も圭太はしばらく春奈の方を見るのをやめた。無駄に突き刺すような視線を感じたからだ。
一番手のバンドが最後の曲を終えて、「ありがとうございました!」と言ってステージを降りていく。
照明が戻ってホールが明るくなると、真っ先に里香が寄ってきた。
「お前は猿か」
「何てこと言うんだよ」
「女とデートしてる最中に他の女とイチャついてんじゃねえよ」
「イチャついてないから」
そういう風に見えたのだろうか。
ふと気になって春奈を確認すると、静かに前方のステージを見つめていた。しかし現在そこには誰もおらず、何が行われているわけでもない。
里香は眉を八の字にして、圭太を指差しながら言った。
「いいか、好きだとか嫌いだとかは関係ねえ。デートの最中に他の女と仲良くすんのは失礼だからな、気をつけろよ」
「はい、すいません」
そして里香は春奈の元へ戻った。
話しかけてきたのは向こうだし、そんなに長時間会話をしていたわけでもない。いまいち腑に落ちない圭太だが、春奈にもそう思われた可能性がある以上、気を付けなければいけないな、と思った。
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