吾輩は猫である
吾輩は猫である。名前を近藤太郎と言ふ。
圭太の部屋にある鏡に自身の姿を映しながら、太郎はそんな独白をしてみた。猫になったので一度はやってみたいと長らく思っていたことを、今更ながらに実現した形だ。
しかし当然といえば当然なのだが、見事なまでに猫だ。この姿を見て中身が人間だとは誰も想像だにしないだろう。そもそも前世の記憶も曖昧だし、自身でも元人間なのかが疑わしくなってきている。
鏡の前を離れ、窓の鍵を外して外に出る。
最初は慣れない身体をうまく扱えず、圭太には鍵を外し、窓を少し開けてから外出してもらっていたが、最近ではこのくらいの芸当ならお手の物だ。
散歩は最近のマイブームになっていた。
何と言っても猫は出来ることが少ないし、こうして外を歩けば様々な情報を集められる。
いくつかの脇道をすり抜け、いくつかの曲がり角を曲がる。その最中、手を繋ぎながら仲良く歩く人間の親子を見かけ、もしかしたら自分の前世にもあんなことがあったのかもしれない、と少し感傷に浸った。
それから更に歩いて行くと、とある家と家の間にある、微妙に開けた場所にたどり着く。
ここはとある散歩の時に見つけた、猫の井戸端会議場になっている場所だ。
太郎に気付いた一匹の猫が首を向けて挨拶をした。彼は黒い毛並みなのでクロと呼ばれている。
「よう、飼い猫の旦那」
飼い猫はこういった場所、というより、そもそも外を出歩くことすら滅多にないため、太郎はこのように呼ばれている。
「太郎です」
「いいじゃねえか。俺らなんてナマエってやつすらねえんだからよ」
野良猫たちは飼い猫を嫌う傾向にあり、最初はこの輪に入ることに苦労した。結局あれこれ考えた末に、理由を話して圭太に用意してもらったするめを挨拶代わりに渡すと「わかってんじゃねえか」と言ってあっさりと入れてもらえた。
彼らはこのような会議を開いて情報を集めなければならないほど、日々の糧に困っている。そこにうまく付け入った形だ。
歩み寄りながら、太郎は無難な話題の振り方をする。
「皆さんこんにちは。最近はどうですか」
反応したのは黄と白のまだら模様で、キシロと呼ばれている猫だった。
「ぼちぼちだな。中々飯に定期的にありつける場所がない」
「もし良ければ、少量ですがまたご飯をお持ちしますよ」
「頼むぜ。最近は野良猫への風当たりも強くなってきてやがる」
本当は毎回持って来たいところだが、家に餌になりそうなもののストックがない場合、ご飯代は圭太の懐から出ることになってしまう。故に、そう頻繁にとはいかないのだ。
「しかし、太郎の旦那は普段住処で何して過ごしてんだ? 飼い猫ってのは暇で暇でしょうがねえだろう」
クロの問いに、太郎は猫として自然な解答を心掛けながら答える。
「毛並みを整えたり、飼い主と遊んだり。後は、猫用のおもちゃで遊んだり、とかですかねえ」
「猫用のおもちゃ? そんなもんがあんのか?」
「ええ、まあ。獲物のような形をしたものを殴って狩りの練習をしたり、小さい家のような形をしたものに登ったり入ったりなど、一口におもちゃと言っても様々なのですが」
「なん……だと……!?」
ざわざわ、とにわかに野良猫たちが色めき立つ。
「何だよそれ。めちゃくちゃ楽しそうじゃねえか……!」
「しかも人間の住処の中だから、敵に襲われる心配もねえときた」
「宝物だって隠し放題だな」
「私も今すぐ飼われたくなってきました」
「おい! この裏切り者!」
「何をするんですか!」
ぎにゃーぎにゃー! と遂には喧嘩を始めてしまった。
「仲間割れはやめろ!」
だが、クロの声でそれらはぴたりと止んだ。
「飼われたいやつは飼われればいい。本当に楽しいかどうかは知らねえが、定期的に飯にありつけるってのはやっぱ魅力的だからな」
誰一人として声を発さず、ただクロの言葉に耳を傾けている。やはり彼はこの集団の絶対的なリーダーであり、皆から信頼される存在なのだ。
「だが、俺はここにいる。お前らが何か困った時、寂しい時、悲しくなった時、ここに来れば必ず俺がいてやる。だから、飼われたいやつもそうでないやつも、いつでも俺を頼れ。いいな?」
「クロさん……!」
「さすがクロさんだ!」
「俺、やっぱりここで頑張りてえよ!」
仲間割れをしかけた一同は、クロの言葉で絆を再確認し、雨降って地固まる結果になった、かのように見えたのだが。
それから改めて会議が再開され、互いにいくらかの情報交換をすると、その場はあえなく解散となった。
今日もあまり有益な情報は得られなかったな、と太郎は彼らの背中を見送りながら思う。
太郎にとってのそれは、言うまでもなくこの辺りで起きた事件や事故など、近藤家の安全に関わりそうなものだ。しかし、そんな情報、入って来ない方がいいという考え方もある。何事も平和が一番なのである。
その場を去ろうと踵を返すと、誰もいないはずの背後から声がかかった。
「太郎の旦那、いや太郎さん、待ってくれ」
振り返れば、そこには彼らと共に去ったはずのクロが引き返してきている。
「どうされましたか?」
「ちょっと言いにくいんだけどよ」
クロは歩み寄り、太郎と頭がくっつきそうな距離で言った。
「もし猫を飼いたいっていう人間がいたら教えてくれねえか」
「えぇ……」
めちゃくちゃかっこいい演説をしておきながら、実は飼われることに魅力を感じていたクロなのであった。
不在が圭太以外にばれると大騒ぎになる可能性があるため、長時間外出するわけにもいかない。目的を果たした太郎は寄り道をせずに帰宅した。
適当に暇を潰してから昼寝ならぬ夕寝に興じていると、飼い主が帰ってきた。
玄関のドアが開閉される音で目が覚めた太郎は、階段の上で挨拶をするために待機する。
「お帰りなさいませ」
「ただいま」
しかし、主の顔は浮かない。
何かあったなと感じつつも、太郎は焦らず、圭太が荷物を置いてベッドにどすんと飛びこんだ辺りで話しかけた。
「今日の学校は如何でしたか?」
「くじ引きで文化祭実行委員になった」
「おめでとうございます、と言うべきですか」
仰向けの状態から、圭太はがばっと身体を起こす。
「いや、ただめんどくさいだけだよ」
「それは災難でしたね」
文化祭実行委員。多少面倒くさいことはあるかもしれないが、この少年なら「たまにはこういうのも悪くないかな」くらいに思いそうだが。
「まあ、実行委員になるだけなら別に良かったんだけど、ちょっとね」
「と、申しますと?」
そこで圭太の口から今日あった出来事が説明された。
一緒に実行委員になったクラスの女子に問題があるらしく、必要以上に絡まれて疲れているのだとか。
「なるほど、圭太さんが浮かない表情をされているのはそのためでしたか」
「遠藤さんに悪気が無いのはわかってるんだけどね。恋バナって誰でも盛り上がりやすい話題だし」
「圭太さんと仲良くなろうと頑張っておられるのでしょう」
「そうなのかな」
「もちろんその方のお人柄にもよりますが、しばらく行動を共にするのですから、仲良くなっておいて損はない、と考えるものではないかと」
「しばらく行動を共にする、か」
そこで圭太は再び上半身を倒し、ベッドに身体を沈めた。
「杉崎さんも実行委員になってくださればよかったのですが」
「そりゃ正直に言えばそうだけど、さすがに遠藤さんに悪いよ」
「そうですね。失言でした」
「別にいいけど」
ふう、と圭太は一つため息を吐いてから続ける。
「しばらく部活にも参加出来なさそうだな」
「実行委員とはそんなに忙しいのですか?」
「学校がある日はほぼ毎日実行委員の集まりがあるらしい」
「それはまた」
「しかも、互いにクラスの出し物の準備もあるから、授業以外はろくに話も出来ないかもしれない」
「隣の席で本当によかったですね」
「全くだよ」
しばらくの間が空いた後、太郎はベッドの上の主に向かって進言する。
「しかし圭太さん、案外悪いことばかりでもないかもしれません」
「何でだよ」
「これまで、圭太さんと杉崎さんは毎日のように顔を合わせていましたよね」
「学校のある日は、だけど」
「急に傍からいなくなった圭太さんの存在を、杉崎さんが意識するということもあり得るのではありませんか?」
「会えない時間が愛を育てる、みたいなやつか」
それは本来遠距離恋愛中のカップルなどに当てはめるべき表現だと思うのだが、太郎は敢えてツッコまなかった。
圭太は勢いよく身体を起こしてベッドから飛び降り、やれやれという表情をしつつ肩をすくめながら口を開く。
「そんな漫画みたいなこと、あるわけないだろ」
「そうでしょうか」
「とりあえず、風呂に入って飯でも食ってくるよ」
「かしこまりました」
しかしそこで、とある重大な事実に気が付いた太郎は、風呂に入る仕度を早々に済ませ、部屋を出ようとする圭太の背中を呼び止める。
「圭太さん」
「どうした?」
「お手数ですが、私のご飯をお願い致します」
実は腹ペコな太郎であった。
その後、愛猫のご飯がまだなことに気付いた摩耶が慌てて用意してくれたので、太郎はこと無きを得る。
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