鮎川里香

「ただいまー」

「お帰りなさい」


 帰宅し、リビングに顔を出して挨拶をすれば、夕飯の支度をしている母が返事をしてくれた。育ち盛りで部活終わりの少女には、もはや暴力とでも言うべき匂いが鼻腔と腹を刺激する。

 どかっと勢いよくソファに腰をかけつつ、鮎川里香はキッチンにいる母に向かって問い掛ける。


「めっちゃいい匂いするじゃん。今日は何?」

「ハンバーグ」

「腹減ったしもう飯食っちゃおうかな」

「まだちょっとかかるから、先にシャワーだけでも浴びてきたら?」

「めんどくさい」

「あなた、そんなんじゃ彼氏出来ないわよ」

「別にいいよ出来なくたって」


 いつものお小言に対していつもの返事をした。むしろこのやり取りをすることで安心感が得られる気さえする。

 母もこれぐらいでは無駄だとわかっているので、ため息を一つ吐いてから料理を中断して手を洗い、早々に奥の手を使った。


「じゃあ里香がシャワーを浴びるまでご飯はお預けね」

「うわ、出た。それ卑怯だよ」

「何とでも言いなさい」


 母は里香の横に腰をおろしてテレビを見始めた。毎度のことだが、本当に料理を再開するつもりはないらしい。

 早くご飯を食べたい里香は、あっさりと立ち上がる。


「しょうがない、シャワー浴びてくるから、ご飯作っておいてね」

「了解」




 シャワーを浴びて夕食を平らげた里香は、自室のベッドでうつ伏せに寝転がりながら、メッセージアプリやSNSなど、諸々のチェックを行っていた。

 チェック、とは言うがただの暇つぶしだ。里香はそこまでソーシャルメディアに依存してはいないし、アプリでのチャットのやり取りも面倒なので、例えば明日それらが突然無くなっても一向に困らない。

 さて、ちょっくらジョギングでも行って、風呂に入って寝るかな、と携帯を放り投げようとしたところに着信が入った。

 ディスプレイには「春奈」と表示されている。

 その二文字を見た瞬間に里香の双眸がきらきらと輝き始めた。こんな時間に何だろう、春奈から電話してくれるなんて珍しいな、と思いながらディスプレイ上のボタンをタップし、スピーカーを耳に近付けた。


「やっほー」

『あ、里香? ごめんねこんな時間に』

「母さんみたいなこと言うじゃん。平気平気、ちょうど暇してたとこだよ」

『ならいいんだけど』

「なになに? 春奈から電話くれるなんて珍しいな」


 ぱたぱたと、自然と足が上下に動いてしまう。もし自分に尻尾がついていたら、ぶんぶんと勢いよく振っているに違いない、と里香はそんなことを思った。


『えーそうだっけ?』

「そうだよ」

『あのね、今日はちょっと相談したいことがあって』


 相談。魅力的な二文字だ。

 大好きな友達が自分を頼りにしてくれているという事実に、じわりと心が満たされていくのを感じる。


「いいよいいよ、何でも来い」

『ありがとう。それでね、相談したいことって言うのが』

「うんうん」

『この前、文芸部で懇親会をしたんだけど』


 この時点で、既に里香は何か嫌なものを薄っすらと感じ取っていた。その正体を探ろうとする間にも春奈の話は進行していく。


『その時に友達と二人で写真を撮ったの』


 二人で写真を撮った?

 春奈は一見、控えめでおっとりとした性格をしているが、その実警戒心が強く、ある一定の距離から精神的に近付くのは中々に難しい。


『でもね、何だかその写真を他の人に見せるのが恥ずかしいっていうか、見せちゃいけない気がしてきちゃって』

「ちょっと待った」


 ある程度を察した里香は素早く春奈の言葉を遮った。そして、普段は全く使わない脳をフル回転させ、思考をしながらも会話を繋げていく。

 文芸部の部員は実質三人。春奈を覗けば二人だ。そして、その内の一人というのが――。


「その友達ってもしかして男?」

『…………うん』

「近藤圭太?」


 思わずフルネームで聞いてしまったのは、里香が普段から圭太のことをそう呼んでいるからだ。会話をしたことはないが、同学年には何名かの「近藤」がいるし、かといって下の名前だけで呼ぶわけにもいかない。


『うん』


 その奥ゆかしく放たれた「うん」に、里香の心は燃え上がった。

 それは黒い感情ではない。ライバルへの対抗心という、清浄かつ正常な、いっそのこと白あるいは透明ともいうべきものである。

 近藤圭太。数ヶ月前から春奈の周りをウロチョロする忌々しい駄犬だ。しかも、一度フラれたというのにまだ諦めていないと見える。


「なるほどね」


 とんとんと足でシーツをつつき、窓の外に視線をやりながら里香は考えた。この事態をどう切り抜ければいいのか。

 ガラスに映った里香は、瞳にぎらぎらとした闘志を宿らせている。


「春奈が何を悩んでいるのかは大体わかった。でも、それは男と写真を撮ったら誰でもそうなるよ」

『え、そうなの? 里香も?』

「もちろん。この前明と写真撮ったんだけど、ちょっと恥ずかしくなって、他の女子には見せられなかったし」


 なるべく決定的な言葉を避けながら、里香はうまく言葉を紡ぐ。この頭が勉強にも使えればもっとテストも楽になるだろうか。


『そう言えば里香って南君と仲いいんだよね』

「仲いいっつーかバンド組んでるだけ」


 里香はボーカル、明はギターだ。

 明は部活の合間に練習しているのであくまでかじっている程度だが、一応形にはなっているので流石と言わざるを得ない。

 あのキラキラした感じは少し苦手だが、華があるし、ギターを弾いていると聞いてほぼ初対面の状態からいきなりバンドに誘った。本人は突然のことに面喰らった様子だったが、承諾してくれた。すごくいいやつだと思う。


『でもすごいよ。バンド組みたいからって同じクラスの男の子に積極的に話しかけるなんて、私には出来ないし』

「別に男も女も一緒じゃん」

『一緒じゃないよ。やっぱりお兄さんが居ると違うのかな? 里香も私と同じ女子中の出身なのに』


 兄のおかげで仕草や言動、考え方など様々な部分が男勝りになったが、里香はそんな自分を嫌いではない。

 ちなみに兄は大学生で、現在は一人暮らしをしている。

 しかし、里香はそこでハッとした。明を一瞬でも意識した、ということにしなければならないのだった、と。


「それで話戻すけどさ。そんな普段は女友達と同じくらいにしか考えてない明に対してでも、あたしは意識する瞬間ってのがあるわけよ」

『うんうん』

「だから、春奈のそれは男子と二人で写真とか撮ったら普通のこと。誰でも意識くらいはするもんだよ」

『そっかあ。私てっきり、近藤君のこと意識してるのかと思っちゃった』


 誰も見ていないと言うのに、ぶんぶんと手を横に振りながら応じる。


「ないない。絶対にないとは言えないけど、あたしが明に対しても意識するくらいなんだから、春奈のそれもきっとそうだよ」


 あえて「絶対にないとは言えない」ということで、よりリアルな感じを出す。これでこのピンチ? は乗り切ったも同然だ。

 スピーカーからは、ほっ、という安堵の息が漏れるのが聞こえた。


『何だかもやもやしてたのが解決したよ。ありがとう』

「どういたしまして」

『里香に相談してよかった。やっぱり持つべきものは友達だね』


 何よりも嬉しい言葉のはずなのに、里香は笑顔になりかけた表情のまま固まってしまった。

 ずきっ、とわずかに走った心の痛みを無視できない。

 春奈は本当に悩んでいて相談をしてくれたのに、自分は欲望に忠実に対応しただけなのだ。少なくとも、現在は里香の勝手な判断で圭太を遠ざけるべきではない、のかもしれない。


『それじゃあまた明日、学校でね』

「うん、また」


 そう言って電話は切れた。しかし、里香は耳から離した携帯のディスプレイを見つめたまま考える。

 もし、近藤圭太が悪いやつなら、自分のしたことは間違いではない。そうだ、まずはあいつがどんなやつなのか確かめなければ。

 そう考えた里香はメッセージアプリで明のアカウントを呼び出し、即座に通話ボタンをタップした。少し間があってから応答がある。


「明? ちょっと頼みたいことがあるんだけど」

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