二人っきりだね

 こつこつ、こつこつ。

 上履きがリノリウムの床を叩く、硬質な音が廊下に響いている。


 推しの嬉し恥ずかし初デート!? という、目玉イベントをしっかり堪能した水樹凛は、血をいくらか失ったにも関わらず、母が一体どんなデートをしてきたのかと勘違いを加速させるほどに血色が良くなっていた。

 とはいえ、反省点は多々ある。

 一刻も早く春奈の尊さに慣れなければ、いつかは凛の存在に気付かれてしまう。昨日も幾度となくめまいや鼻血の噴出を起こしてしまった。しかも、最後に春奈の敬礼をチラ見した際には意識を失ってしまい、気が付けば病院にいたという有様である。


 貧血と診断されたらしく、すぐに家に帰ることが出来たが、救急車で運ばれる際にうなされながら「尊い、尊すぎる」と言っていたらしく、母に「尊いって何?」と聞かれて後始末が大変だった。

 ちなみに、その場は「夢に内閣総理大臣が出てきた」と言って誤魔化した。本来の日本語としての「尊い」の意味になぞって、慌てて自分より身分の高い人の名前を挙げたのだが、正解だったかどうかはわからない。


 それよりも次のイベントはいつなのだろうか、そろそろグッズ販売なども始めて欲しいところだが――。

 そう思いながら凛は、放課後に文芸部の部室として使われている、予備教室の扉を開けた。


 まだ誰も来ていないことを確認しつつ中に入る。

 まずは部活の準備だ。適当な机を二つ移動させて向かい合うように設置する。そしてそれらの真ん中に一つの机を置いた。もちろん、凛の席は最後のものだ。これで二人の様子を観察しながら読書が出来る。

 だが、文化祭が近づいているこの時期だ。春奈や圭太のことばかりを気にかけていないで、そろそろ凛も本気で部活動の方をしなければならない。

 凛は基本的に小説や俳句を書いている。文化祭にも自分の小説を書いて展示物として出す予定だ。しかし、今はこの小説に関して、どのような物語を書くかということがネックになっている。


 凛としては是非とも春奈を主人公にして、圭太とイチャラブするラブコメを書きたいのだが、それでは流石に本人たちにばれてしまう。そこで白羽の矢が立ちつつあるのがファンタジーものだ。

 魔法使いの女の子ナハルが、勇者志望の幼馴染の男の子タイケと一緒に魔王を倒す旅に出る物語で、ナハルは献身的にタイケを支えつつ、タイケもそんなナハルに答えるべく日々研鑽を磨く。

 最終的に二人は魔王を倒してめでたく結ばれるのだが、そうやって考えているだけでも鼻血が出そうになってきた。


 凛が鼻に詰め込む用のティッシュを準備していると、教室に誰かが入ってきた。


「あっ凛ちゃんだ」


 振り向くまでもない。ナハル……ではなくて春奈だ。

 控えめな足音が近付いてくるにつれて、凛はライブハウスでライブが始まる直前、機材のセットが終わって照明が落ちた瞬間のような高揚感を味わっていた。

 ちなみに、凛は中学の時、軽音楽部の卒業ライブに招待されて一度だけライブハウスに行ったことがある。狭く薄暗い地下空間に人がぎゅうぎゅうになって何がそんなに楽しいんだと、あの時は思っていた。ライブ直前に照明が落ちた時も、同級生たちの湧き立つ感情が理解出来なかった。

 だが今は違う。理解出来るどころの話ではない。凛にとっては、正にこれから推しのライブが始まるところなのだ。


 混乱する思考を何とか抑えつつ、席に着いた春奈に視線をやって挨拶をする。


「こんにちは。今日は杉崎さんの方が先なのね」

「うん。今日は友達がすぐに部活に行っちゃったから」

「近藤君はどうしたの?」

「わからないけど、友達のところじゃないかな。南君とか」


 春奈の言う通りだろう。他に部の掛け持ちもしていない圭太がこの時間にいないとなれば、大体が明のところに行っている。

 明は有名人なのでサッカー部だということくらいは凛も知っていた。サッカー部は今日も普通に活動しているので、圭太もすぐに来るだろう。今日も至福の時間が訪れることは約束されたも同然だ。

 凛は内心でほくそ笑みながら鞄から水筒を取り出し、お茶を飲み始めた。


「今私たち、二人っきりだね」


 しかし、すぐにそれを全力で吹き出してしまう。さすがに春奈から悲鳴があがる。


「ごめん! 急に話しかけちゃって」

「大丈夫よ。杉崎さんにはかかってない?」

「うん」


 春奈はポケットからハンカチを取り出して、後始末を手伝おうとする。これはいけないと、凛はそれを手で制した。


「そんな貴重なものをこんなことで使ってはだめよ」

「ただのハンカチだよ?」


 推しのハンカチなど金を積んでもそうそう手に入るものではない。それを一度自身が口に含んだお茶で汚すなど、凛には耐えられそうになかった。

 片付けを終えてようやく落ち着いた凛は、改めてお茶を飲みながら考える。


 二人っきり。今まで色んなことを考えていて気付かなかったが、言われてみれば確かに二人っきりだ。

 春奈は何の気なく、女子同士の戯れ的な感じで言ったのだろうが、凛としては深刻な事態である。

 凛はマナーはきっちりと守るタイプのファンだ。推しと直接二人で会うなど嬉しいし興奮もするが、マナー違反の極みで抜け駆けでしかない。とはいえ、今回は不可抗力で致し方ない一面もある。皆さんごめんなさいと、いるかどうかもわからない他のファンに向けて、凛は心の中で何度か謝罪した。

 ようやく気が済んだところで、今度こそ部活動に集中する。まずは文化祭用に書く短編小説のプロットを組み立てていく。

 タイトルは「魔法使いナハルと禁呪神殿の怪物」。春奈……ではなくナハルとタイケの最初の冒険を描いたもので、彼らの生まれ育った村の中にあり、絶対に立ち入ってはならないとされていた――。


「ねえねえ、凛ちゃん」

「何かしら?」


 春奈が少し身体を寄せながら話しかけてきた。これぐらいでは動じなくなったことに凛は自身の成長を実感する。


「昨日の放課後、駅近くの本屋さんにいなかった?」


 まさかの不意打ちに悪い意味で心臓が止まりそうになった。

 いや、落ち着け。いなかった? と疑問形なので、まだはっきりと正体がばれたわけではないはずだ。


「昨日は学校から帰った後、ずっと家にいたけれど。どうして?」

「そっかー。あれ、凛ちゃんだと思ったんだけどなー」


 予想が外れたことを残念そうにする春奈。

 やはり読み通りだ。しかし、騒ぎを起こして注目を集めたとはいえ、変装していたのでばれる可能性は低かったはず。ここは後学のためにどこが至らなかったのかを聞いておく必要がある。


「誰か私に似ている人でもいたのかしら」

「うん。すっごく美人でスタイルも良いお姉さんがいたんだけど、凛ちゃんがメイクして髪をおろしたらあんな感じなのかなーって思って」

「かっは」

「凛ちゃん!?」


 推しに美人でスタイルがいいなどと褒められてしまった。おまけに、メイクをして服装を凝った程度では見破ってしまう女子らしさで尊さが加速している。

 それらのことが重なって過呼吸になってしまっただけなのだが、春奈は本気で心配をしてくれているようだ。

 凛は深呼吸で呼吸を整えてから言った。


「大丈夫よ、ちょっと呼吸が乱れただけだから」

「体調悪かったら一緒に保健室行く?」


 一緒に保健室に行ってくれるなど、何というファンサービスだろうか。

 いや、本気で心配してくれている人に対してファンサービスなどと考えるのはどうにかしている。凛は何とか正気を保ちつつ応じた。


「いえ、いつものやつだから」

「そっかー大変だね」


 持病がそう大したものではないと伝えているため、こういえば春奈は比較的安堵した様子を見せる。


「それより、杉崎さんは本屋で何をしていたの?」


 話題転換のために、本当は知っているのだが敢えて聞いた。

 春奈はぱっと笑顔になり、答える。


「そうそう昨日ね、好きな本の新刊が出たの。それで特典にしおりがついてたんだけど何種類かあるから、近藤君に付いてきてもらって欲しいの二つゲットしたんだ」

「そう。最近近藤君と仲がいいのね」

「近藤君とは話がすごく合うから楽しくて。ラノベじゃなかったら凛ちゃんにお願いしてたところだったんだけど」

「私、ライトノベルはあまり読まないから」

「だよねー」


 実は多少は読むしアニメもたまに見たりするのだが、内緒にしている。そうしておいた方が圭太と春奈の仲が進展しやすくなると考えたからだ。実際、今回はそれが功を奏したようで何より、と凛はこっそりと拳を握った。

 推しに男が近づけば普通は邪魔の一つでもしたくなるものだが、不思議とそんな気は起きなかった。その原因は凛自身もわかっている。

 まず、あの二人は見ているだけで非常にいい。二人とも派手なタイプではなく奥ゆかしいから温かく見守ることが出来るし、春奈のお茶目な仕草や言動に圭太がどぎまぎしているのもいい。

 加えて、圭太はいわゆる優良物件だ。

 優しいし真面目な上に素行もいい。なのに、友達が少ないせいか、何故かモテないので浮気の心配もせずに済む。

 本当に推しの幸せを願うならああいった男性と結婚するのがいいのではなかろうか。凛は真面目にそんなことを考えてしまうのである。


「おっす」


 そこで圭太の声がした。振り向けば、ちょうど教室に入ってきたところだ。春奈が片手をあげながら応じる。


「おっす、今日は遅かったね」

「ちょっと明と話してたからね、水樹さんもおっす」

「こんにちは」


 圭太は席に着いて荷物を置くと、早速春奈に声をかけた。


「『精霊術師』まだ途中だけど、すごく面白いね」

「本当? 嬉しいな」

「クルちゃんが思ってたよりもかっこよくて笑っちゃったよ」

「でしょ。クルちゃんはかっこいいんだよ」


 そこから共通の話題で盛り上がっていく二人を見て、凛は自然と穏やかな笑顔になっていた。

 そうそう、こういうのでいいのよ、こういうので。

 凛は内心でほっこりとしながら、今日も静かに二人を見守るのであった。

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