水樹凛の推し活
「ただいまー」
「お帰りなさい」と、リビングからの返事を聞きながら二階に上がる。
今日は圭太と春奈のデートの日だ。昨日、トイレに立ってすぐ戻り、教室の外でこっそり聞き耳を立てていると、まさかのイベント情報を手に入れたのである。
水樹凛は逸る気持ちを抑えつつ、至って冷静に自室に入り、荷物を置いて身支度を開始する。
化粧はこういう時のために覚えておいた。
これまで全くしたことがなかったので戸惑ったが、雑誌やネットで調べた。おかしいところはないか親にも見せて確認したので問題はないはずだ。
更に眼鏡をコンタクトにして髪をおろせば、誰も今、鏡に映っている人物を水樹凛だとは思うまい。念のためファッションにまで力を入れて、普段の凛が学校で過ごす姿からは想像も出来ないような外見を作り上げた。
これで準備は整った。鞄を持って母に出かける旨を伝えるために、階下のリビングに顔を出す。
「お母さん、ちょっと本屋に行ってくるから」
「あら、もしかして今日が本番なの?」
母は凛が化粧をし始めた理由を「好きな男の子が出来たから」だと勘違いしている。これまで化粧をしても練習どまりでそのまま出かけることはなかったので、今日がその男の子とデートをする日だと思っているのだろう。
「いつも言ってるじゃない。そういうのじゃないって」
「はいはい。お母さん嬉しいわ。凛も年頃の女の子なんだなーって」
全く人の話を聞いていない。
母は、生真面目で勉強一辺倒の凛をずっと心配していた。だからいつも、ここから先は強く否定しない。嘘はついていないし、知らない方がいいこともある。夢中になれるものを見付けたのは事実だが、それは母が思っているものとはかけ離れているのだ。
「じゃあ、なるべく早めに帰るから」
「行ってらっしゃい。その内お母さんに紹介してね」
返事はせずに家を出た。
温暖化の進んだ昨今では、この季節の変わり目でも薄着が目立つ。それでも凛は陽が沈んでからのことを考えて、上に一枚薄手のカーディガンを羽織っている。
「こんばんは」
近所のおばさんに挨拶をした。小さい頃からお世話になっている方だ。
しかし、おばさんはこちらを見て固まった後、更に一瞬の間を置いてから驚いた様子で声をあげた。
「もしかしてあなた、凛ちゃん!?」
「ええ、そうですが」
そこで凛は自分がいつもとは違う外見をしていることを思い出した。
「いやー、どこかの女子大生とか、OLさんかと思っちゃったわよ」
「今から買い物に行くので」
「そうなの。凛ちゃんもすっかり大人になったわねえ、お母さんに似てとっても美人さんだわ。それともお父さんの方かしら」
「ありがとうございます」
母は好きだが、父は苦手だ。
嫌いというわけではないが、実の父親だというのに寡黙で掴みどころがなく、どう接していいのかわからない。それは、外見がとても若々しく、親というほど歳が離れているように見えないのも一つの要因なのかもしれなかった。
「では、失礼します」
おばさんに挨拶をして、再び目的地への歩みを進める。
凛はとても真面目な部類の人間だ。少なくとも自身ではそう思っている。
母が心配していた通り、今までは勉強以外にこれと言った趣味はなかったし、何か大きな目標があるわけでもなかった。そう、
杉崎春奈と出会うまでは。
どこかあどけなさの残る、人形のような可愛らしい容姿。そして、真面目で大人しいのにたまに茶目っ気を見せる性格。漫画やアニメが好きなのを隠すところも好きだし、高校生になっても恋愛感情がわからない、と言っているところもツボだ。
最初はこの気持ちが何なのかよくわからなかった。
恋愛感情かと思って色々考えた結果、どうやら違うらしい。かと言って好きではないかと言われればそんなことはない。大好きだ。
そこでネットで色々調べた結果、ようやくその正体が判明した。
どうやらこれは「尊い」、または「てぇてぇ」というらしい。今となっては定義が広くなり過ぎて難しいが、おおよそ自分が大好きなものに対して最大級の賛辞を贈る際に使われる言葉のようだ。
特に実在のアイドルや漫画やアニメのキャラクターに対して神を崇めるかのような気持ちで使われることが多い。
その流れに乗っかって言えば、杉崎春奈は凛にとっての「推し」なのである。
特に最近は同じクラスの近藤圭太と仲睦まじく、二人のいかにも青春の一ページと言ったやり取りに、興奮のあまり鼻血が噴出しそうになるのを抑えたり、めまいや動悸を感じながら何とか見守っていた。
圭太が焦って告白して、しかも実らなかった時には動揺したが、数日間部室には入らず外で聞き耳を立てるだけに徹したところ、関係が修復したようで一安心だ。
そして今日は念願の二人の初デートであり、凛の初めての「推し活」の日。しかも何があったのかは知らないが、春奈から圭太を誘ってのことだ。緊張でもしていたのか、昨日の春奈はいつにも増して尊かった。
思わず緩んでしまう頬を制御しながら歩いていると、目的地が見えてくる。
繁華街の中にある、全国チェーン展開をしている大手の本屋だ。店舗が広く、一つ一つのコーナーの品揃えが豊富なので、文芸部の三人はいつもここで本を買っている。
今日の部活終了後に来るとのことなので、今の時間からここで張っていれば見逃すということはないだろう。
最初は店員に怪しまれないよう店全体を巡回しつつ、時間が迫ってきたところでライトノベルコーナーの隣にある小説コーナーで時を待った。
春奈が目当てにしているキャンペーンの対象商品はライトノベルだったはずなので、ここで待っていれば二人の様子を聞くことが出来る。
そして、遂に標的がのこのことやってきた。
書店の入り口から圭太と春奈が入ってきて、笑顔で雑談を交わしながらこちらに向かって歩いてくる。
凛はコンタクトレンズの中で目を不気味に光らせながら息をひそめた。
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