太郎は見ていた

 猫の身体にも随分と慣れたものだ。人間のそれと比べれば不便な点もあるが、逆に便利な点も多々ある。

 足が速く、身軽で小さいから隠密行動がしやすいし、聴覚や嗅覚だって人間の時よりもはるかに優れているように感じる。それに、そもそも猫の姿そのものが便利だ。正に今のような状況は、猫だからこそ成せる技なのである。


「夏彦君、おっす」

「おう」


 圭太に開けてもらった窓から家を抜け出した太郎は、摩耶の元へきていた。

 互いの兄と姉を引き合わせた後、スタジアムの入り口で待ち合わせようという、そんなメッセージでのやり取りを見ていたのだ。本当は圭太と春奈の様子も見守りたかったが、さすがにスタジアムの中にまで入るのは無理がある。

 今回は、最近摩耶と仲の良い杉崎夏彦という男子がどんな人物なのか、それを確認できるだけでも良しとするしかない。


「下から見てた。うまくいったみたいだな」


 ツンツンの黒髪と切れ長の目、それに似合う中学生にしてはやや低めの声が、野性的な雰囲気を醸し出している。だが平均よりも若干下の身長のおかげで、そこまで威圧的な感じはしない。

 先ほど確認した杉崎夏彦の容姿を思い浮かべながら、太郎は二人の会話を、スタジアム入り口の屋根の上、つまり二人のほぼ真上で聞いていた。


「うん。お姉さんを直接見たことがなかったから不安だったけど、お兄ちゃんが反応してくれたから」

「そうか」

「夏彦君、ありがとね」

「何が」

「今回のこと。協力してくれて」

「明君には世話になってるからな」


 これまでの二人のやり取りから察するに、明と夏彦は中学のサッカー部での先輩後輩関係だったらしい。明が卒業した今でも、サッカーやその他のことを含めて諸々の相談に乗ってもらっているらしく、随分と慕っているようだ。

 世間が狭いという話なのか、それとも明の交友関係が広いという話なのか、太郎には判別がつかなかった。


 今回の話の流れはこうだ。

 圭太から春奈の話を聞いた摩耶が、杉崎という名字に目を付け、同級生の杉崎夏彦を当たってみたところ、姉弟だったことがわかった。

 そこでこの度、ふられて元気のない兄を見た摩耶は、まずは二人の関係を修復すべく夏彦に協力を依頼した。

 夏彦も夏彦で、それより以前から明に「何かあったら、圭太に協力してやってくれ」と頼まれていたので、二つ返事で承諾する。


「明君様々だね。実際、ダメ元でお願いしたらオッケーしてくれたから逆に驚いちゃった」

「何でダメ元なんだよ」

「だって、お姉ちゃんと仲良くさせたいから協力してーなんて、普通はあまりいい気はしないでしょ」

「相手によるんじゃないか。圭太君と会ったことはないけど、明君の親友だって人なら悪い人じゃないと思うし」

「明君の信頼度すごっ!」

「だから、変な男に捕まるくらいならむしろ圭太君と付き合って欲しいくらいだ」

「ま、うちのお兄ちゃんは悪い人じゃないよ。女心はわかってないけどね」

「そうか」

「うん」


 そこで間が空き、二人の間に流れる空気がにわかに解散の気配を帯びる。


「それじゃあ俺、もう戻るから」

「うん、ごめんね。大事な試合の前なのに」

「気にしなくていい」

「試合頑張ってね! 応援してるから」

「おう」


 摩耶は背を向けて歩き出した。スタジアムに入るのではなく、そこらを散歩してから戻るようだ。

 太郎としては目的を果たしたが、ここまで来たなら一人で歩く摩耶をスタジアムに戻るまで見守ってから帰ろうと、後に続くべく身体を起こした。


「おい、今の近藤さんだろ」

「そうだけど」


 しかし、スタジアムからこのタイミングを見計らって出て来たらしい、夏彦のチームメイトの言葉を聞いて足を止める。


「お前、仲良いの?」

「悪くはない」

「だって、お前が練習中に抜け出すなんて珍しいじゃん。狙ってたりすんの?」

「別に」

「だったらさ、紹介してくれよ。可愛いよな~近藤さん」

「自分で行けよ」

「つれないこと言うなって。じゃあさ、俺が今日の試合で点決めたら紹介な」

「サッカーを賭けに使うなよ」

「別にいいだろ。俺ウイングだし、点を決められることなんて早々ないんだから」

「……」


 夏彦は足を止めたまま、何かを考えるような間を置いてから、こんなことを言った。


「いいけど、俺がお前より点を決めたら一生紹介しないから」


 太郎はそれ以上二人の会話を聞くことなく、静かにその場を後にした。


 〇 〇 〇


 試合が始まって少し経った頃に摩耶が戻ってきた。


「遅い。もう少しで探しに行くところだったぞ」


 夏彦はあれから数分ほどでグラウンドに姿を現した。だから摩耶もすぐに戻ってくるものと思っていたが、一向にその気配がなかったので、春奈と心配していたところだったのだ。

 しかし摩耶はあっけらかんとした態度で元気に答えた。


「いや~ごめんごめん、軽く散歩してたら道に迷っちゃってさ」

「お帰りなさい」

「ただいま戻りました!」


 春奈に挨拶を返すと、摩耶はそのまま圭太をスルーして春奈の横に座る。


「えへへ~」

「えへへ?」


 にっこにこな摩耶を見て、やや困惑気味の春奈。


「おい、杉崎さんが困ってるだろ。そっちじゃなくてこっちに座れよ」

「だってお兄ちゃんうるさいし。それに私、お姉さんと仲良くなりたいな」

「春奈でいいよ」

「じゃあ春奈さん、私も摩耶って呼んでくださいね」

「摩耶ちゃん?」

「きゃー摩耶ちゃんだって! どうしようお兄ちゃん」

「どうもしねえよ」


 おかしい。摩耶は女子テニス部に所属しているので上下関係にはうるさいはず。しかし今の妹は、先輩というより近所の仲の良いお姉さんでも相手にしているようにしか見えない。

 春奈が体育会系ではないことを見抜いているのか、それともどの先輩に対してもこんな感じなのか、いずれにせよ妹の人懐っこさに舌を巻く圭太である。


 その時、グラウンドの雰囲気が変わる。

 選手たちが中央に集まって整列し、散らばって各ポジションにつく。それぞれの主将と審判が残ってコイントスが行われ、どちらのボールでキックオフするのかを決めた。

 夏彦たちのボールでキックオフ。試合が始まる。夏彦はいわゆる四二三一フォーメーションのトップ下で、背番号は十番。

 圭太は思わずサッカー好きの顔になって春奈に話しかける。


「夏彦君十番でトップ下じゃん」

「それってすごいの?」

「試合を観ないと何とも言えないけど、チームで一番うまいってことじゃないかな」

「そうなんだ」


 現在では七番をエースナンバーだとする向きもあり、高校によっては伝統的に十四番をそうだとしているところもあるが、それでも十という番号には重みがある。

 加えてトップ下は、トップの選手に決定的なパスを供給したり、時には自分でペナルティーエリアに侵入してゴールを狙ったりもするので、基本的に足元の技術が高い選手が採用される。

 現代のトップ下に居場所はないとされていて、夏彦も攻撃時には一、五列目にポジションを取っているようだが、それでも花形なことには違いない。


 急に目を輝かせる圭太に、春奈は首を傾げる。


「近藤君ってサッカー好きなの?」

「うん、そういえば言ってなかったかな。明の影響で海外の試合とか結構観てる」

「そうなんだ。私、サッカーのこと全然わからないから」

「俺も観てるだけの素人だよ」

「でも、ルールとかはわかるでしょ?」

「それなりに」

「じゃあ今日の解説、お願いします」

「頑張ります」


 試合が進行していく。

 前半も半ばというところで、夏彦たちがゴール前に迫っていた。

 ゴール前で味方からのパスを受けつつ技ありのターンを決めて抜け出した夏彦が、ディフェンダーに追いつかれる直前にシュートを放つ。しかし、これは惜しくも相手ゴールキーパーのファインセーブに阻まれてしまった。

 だが、そのままクリアされるかと思われたボールは、右サイドから中央に入ってきていた七番の選手が拾ってそのままシュート。

 夏彦たちの先制点だ。圭太たちのいるゴール裏がにわかに盛り上がる。


「わーすごい」

「夏彦君も惜しかった~」


 ぱちぱちと、父兄や部員に混じって拍手を送る春奈と摩耶。しかし、圭太は別のことが気になっている。

 ゴールセレブレーションで七番の下に集う選手たち。だが、夏彦は近くまでは行くがその輪には入らず持ち場に戻る。笑顔もない。


 春奈に確認を取ってみた。


「ねえ、杉崎さん」

「ん?」

「夏彦君っていつもあんな感じなの?」

「あんな感じって?」

「ゴールを皆で喜んでる時に輪に入ってなかったから」


 春奈は顎に指を当て、宙に視線を躍らせる。


「んー……そう言えば、いつもは参加してるかも。無愛想な子だけど、仲間想いだし」

「そっか。ありがとう」


 ゆっくりと歩く十番の背中は、静かに何かを語っていた。

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