18.覚悟(マエル)

 最悪だ……。


 耐えられないほど気まずい沈黙が続く中、頭の中では目眩がするくらい思考が巡っていた。


 発見した時の反応からして、やっぱりスティーブさんはアレの存在を知らなかったみたい。

 でもこれ、私が用意したなんて捉えられたら、“マエルって尻軽だったんだ”と思われてもおかしくない。あんなの持ち歩いてる令嬢、普通いないって。


『それは多分テレさんが用意したヤツで、私自身、そんなことするつもりなかった』


 今更そんな言い訳、通用するわけないよ……。


 だって、ソファに座ってた私の下に置いてあったんだもん。スティーブさんが裏面の[good luck]の文字を見つけても、“私が密かにテレさんから受け取ったんだろう”と勘繰られるのが関の山。


 極め付けは『一緒に寝たい』とかも言っちゃってるし……。


 そしたら、さっきの妄想劇が正しかったとしても、私の貞操観念に対する信用は完全に失墜したも同然。

 婚約破棄の件だって、本当に“浮気してたんじゃないか”という具合に、彼の思考が繋がってしまいそうで怖い。


 私の馬鹿。

 何でソファに置いてっちゃったんだろう……。

 こんなことになるなら、最初から別のところに仕舞っておけば良かった――。


 目を瞑ったまま、顔を覆っていた手を膝に下ろす。

 ずっと黙っているスティーブさんは、今何を考えているんだろう――と思った矢先、唐突に彼が口を開く。


「ばあちゃんも、イタズラが過ぎるよな……」


 ……お?


 パッチリと目を開き、ゆっくりスティーブさんの方を向くと、苦笑いで箱の裏面を見つめる彼の横顔が見えた。


「これ、ばあちゃんの字だろ。マエルがこんなの持ち歩くワケないしさ」


 スティーブさんは推測で、私が入浴中に自分がトイレに行った隙を突いて仕込んだんだろうと語る。そして、私へ先に手渡すつもりだったのなら[good luck]なんて書く必要がないとも。


「ここへ入って来た時、マエルが咄嗟に何かを隠すのが見えてたんだ。先に見つけて“どうしよう”って悩んでたから、焦ってたんじゃないのかい?」


 ここまで私は一言も喋っていない。

 それなのに、全てを言い当ててくれたスティーブさんに対して「うん」と小声で頷いたら、彼は天井を仰ぐように屈託のない笑顔で笑った。


「実際、こんなの見つけたら焦るっしょ〜」


「ま、まぁね……すごいビックリしたし、変なことばっかり考えちゃった」


「ははは、何がgood luckだよって感じだよな」


「でも……どうしてそこまで判ったの?」


 安堵に胸を撫で下ろして尋ねると、彼の緩んでいた表情が、瞬く間に真剣なものへと変わる。


「マエルを信じてやることしか、俺には出来ないからさ」


 くらい……?


 自信なさげにそう告げたスティーブさんは、目で追う私に背を向けて横になり始めた。

 私も彼と反対向きに寝そべって、溜息混じりに毛布を被る。背中越しに、優しい温もりが伝わって来た。


 婚約破棄の話をした時もそうだったけど、こうやって私のことを信じてくれるのは、すごく嬉しい。けど、ダイニングで見た時と同じく、彼の様子はどこかおかしい気がしてならない。

 

 まるで、私を避けているみたい。


「やっぱり私がお風呂入ってる時、テレさんから何か言われたんだよね……?」


 はぐらかされると分かっていても、堪らず質問してしまう。すると、スティーブさんはハァと大きな吐息を漏らした。


「ばあちゃんから『マエルには深入りするな』って、忠告されたんだ」


 はいッ!?


 予想もしていなかった言葉に、ガバっと上体を起こして「どういうこと!?」と聞き返す。そんな私に、彼は背を向けたまま答えた。


「マエルが婚約破棄された件って、何か陰謀があるんだろ? でも『スティーブが手に負えるような事案じゃない』……だってさ」


「い、陰謀かどうかに関してはまだ推測の段階だから、何とも言えないんだけど……」


「正直いうと、俺も最初話を聞いた時に“少し強引過ぎないか?”とは思ってたんだ。それをマエルが風呂入ってる時、ばあちゃんに相談してみたんだ」


「……スティーブさんから?」


「そう。でも俺って馬鹿じゃん? だから『混乱を招くから下手に首突っ込むんじゃない』って、釘刺されちまったんだよ」

 

 そ、そんな……。


 自身の腕を枕にする彼を見ながら、何と返したらいいか分からなくなる。自分の描いていた妄想が、どれほど邪な茶番だったのかを思い知り、居た堪れない気持ちになった。


『自分の財産すら碌に守れない男が、どうやって複雑な事情を持つあの子を守るんだい』


 テレさんからそう諭された彼は、親友から騙されたことで自信を失いかけているようだ。


「……エンゴロのことだって、やっぱり悔しくてたまんないんだ。でも俺なんかじゃ、上手く太刀打ち出来なくてさ」


 囁く彼の背中から、哀愁に満ちた空気が滲み出る。私は毛布の端を握る手を見ながら、軽く首を振った。


「スティーブさんは、もう十分闘ったよ。だから、あなたにはこれ以上、無理して欲しくないんだ。それに、私のこと心配してくれるだけでも……すごく嬉しいんだよ?」


「けどこのままじゃ、マエルは海外に行っちまうんだろ?」


「うん。明日両親が帰ってきたら詳細は分かるはずだけど、そうなると思う……」


 途端、スティーブさんは体を起こし、眉を顰めて私を見つめてきた。


「ホントにそれでいいのかよ、マエル。海外へ行けば、君は幸せになれるのか?」

 

 真剣な眼差しで問われて、ドキンと心臓が跳ねる。


『海外なんか行きたくない! あなたと一緒にいたい!』


 今ここでそれが言えたなら、どれだけ楽になれるだろうか――でも、そんなこと言えない。


 貴族と庶民では、背負うものが違う。

 貴族には、どうしても守らなければならないものがある。

 だから、令嬢の婚約に恋愛感情なんて二の次扱いなんだ。


 多分、彼の介入を阻止しようとしたテレさんは、それを分かってる。私とスティーブさんが身分不相応な者同士で、上手くいく訳がないと。

 テレさんとは仲良くなれたと思っていたからすごく寂しいけど、それも彼女なりの優しさなんだと思う。


 じっと返答を待つ彼から、私が視線を外して俯く。


「幸せに……なれるんじゃないかな……」


 やんわりと彼との決別を匂わす、心にもない言葉が出る。

 途端、目頭からポロポロと涙が滴り始め、頬を伝う雫が顎先から垂れて、握り拳の上に落ちた。


『いいんだっつの、そんなこと気にしなくて! マエルの気持ちの方が大事なんだから――』


 私の気持ちなんて、言えないよ。


 好きなのに。

 大好きなのに。

 離れたく……ないのに。

 

 すると――毛布を握る私の両手に、彼の手が重なった。


 スティーブ……さん?


 コツンと、私と彼の額が触れ合う。

 目を瞑った彼の、長いまつ毛が鮮明に見えてくる。


 彼の唇が近づいてくる――すると彼は躊躇ってしまったのか、私の唇の寸前で止まった。


 嫌……キスしたい。



 ぎゅっと抱きついて、吸い込まれるようにキスをする。



 彼の柔らかな舌がゆっくりと口内に入ってきて、たちまち頭の中が真っ白になっていく。それでも、無我夢中になって舌を絡ませた。


 情熱を注ぎ込まれるような口付けで、身も心もトロけていく感覚に襲われる私を、全身を優しく包み込む腕がゆっくりとベッドへ押し倒す。


「マエル……」


 小さく囁いた彼は私に覆い被さると、緊張で震える私の手をそっと握ってくれた。互いの指が複雑に交差し、口付けはさらに濃密なものへと変わっていく。


 はぁ……。


 私、これからスクラップ(?)にされるんだ。

 でも、いいのかな。

 最初で、最後になるのかな……。


 期待と不安が入り混じる中、じんわりと熱を帯びてきた下半身が疼き始めて、


「ん……」


 と、幸せの吐息が唇の隙間から溢れた瞬間――突然、覆い被さっていた彼の唇が離れた。


 あれ……?

 な、何?


 と、思いきや――胡座をかいた彼は“しまった”と言わんばかりに顔を歪めて、後頭部を掻きむしった。

 虚をつかれた私が「ど、どうしたの……?」と尋ねたら、彼はあどけない表情を浮かべて苦笑いした。


「あ、危ねぇ〜、また突発的に行動しちまうとこだった」


 嘘嘘嘘!?

 今反省しちゃってる!?

 タイミング悪すぎ!


「え〜ッ!? 今のはいいんじゃないの!?」


「ダ、ダメだよ……! こういうのは、ちゃんと順序を踏まないと」


 唇をキュッと結んだ彼に対し、口をぽかんと開けて固まってしまった私。

 完全に受け入れ態勢だったのにお預けを喰らって超絶ガックリしつつも、恥ずかしがるように毛布で顔を半分隠した。


「で、でもこういうのって、勢いとかも必要なんでしょ……?」


 お互いに気持ちを確認したわけじゃないけど、スティーブさんがその気なら、間違いなくそのままシてたはず。


「そうだけど、今はダメなんだ」


「……今は?」


「マエルのことは、もっと大事にしたいんだよ。ばあちゃんから何と言われようが、俺はマエルを“守る”って……決めたから」


「スティーブさん……」


「海外なんて、俺が絶対に行かせない。だからマエル。事が落ち着くまで、待ってくれないか?」


 トクン――。


 私が突き放そうとしたのに、スティーブさんは諦めていなかった。『待ってくれないか』の中には、たぶん告白も含まれているんだと思う。

 そんな彼の誠実を貫こうとする姿を見て、ふぅと深い溜息を吐き、毛布からヒョコっと顔を出す。


「……もう一回、キスして?」


 そう願いを乞うと、フッと顔を綻ばせたスティーブさんが、私と向き合うように寝転がった。


 改めて間近で見る彼の顔に、うっとりする私。


 こんな近い距離で見つめ合うのはすごく恥ずかしいけど、彼が側に居てくれると分かった安心感で、私の胸は幸せな気持ちでいっぱいになっていた。

 下着が空振りしたことなんて、すこぶるどうでも良い。


 私の頬に、ふんわりと手を添えてきた彼がニコリとはにかむ。見れば見るほど、その整った甘い顔をした視線から目を背けたくなる。


「マエルの恥ずかしがる顔、マジでめっちゃ可愛い。ホントに可愛いよ……」


「……い、意地悪〜」


 少し頬を膨らませて口を尖らせた瞬間、はむっと唇を奪われる。

 一瞬驚いたけど、さっきとは打って変わって、落ち着いた気持ちで唇を重ねることが出来た。


『大好き……』


 喉元まで出かけた言葉を飲み込む。

 こんな状況でも、やっぱり自分からは言えなかった。


 寝たくない……。

 ずっとこのまま、時間が止まってて欲しい。


 こうして私は眠りに落ちるまで、彼から優しく抱っこされながら、ずっと口付けし続けた――。

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