8.帰りたくない(マエル)
ゆらりと湯気が登るココアを、両手で包むように持って飲んでみる。じんわりと染みる温かさと、甘く豊かなカカオの香りが鼻を抜けていく。
はぁ、美味しい……。
そして、一口だけ飲んだココアをスティーブさんに「はい!」と手渡した。
「ホ、ホントにいいの? 俺が口つけちゃって」
「いいよ? 気にしないで飲んで!」
「お、おう……」
彼の喉元がゴクリと上下する。
カップを回しながら目を凝らし、ルージュの付いた部分を一生懸命探している様子が、“もう少し、さりげなく探せばいいのに”と愛おしくなる。
これで敢えてその場所を避けてきたら、すんごいショックだけど――。
昼食を終えて車を発進しようとしたスティーブさんが、クラッチレバーをやたらガチャガチャさせ始めた。
「あれ? またギアの入りが悪くなっちったな……」
いきなりポツリと呟かれ、驚いた私はすぐさま口を押さえた。
「え、何!? もしかして帰れない感じ!?」
「いや、ミッションが少し滑ってるだけで、走れないほどの不具合じゃないから安心して! あとで調整すれば、すぐ直るやつさ!」
安堵して「なんだ、良かった〜!」と、座席の背もたれに寄りかかる。
「でも壊れちゃったら、やっぱ乗り替えたりとかするの?」
「んー乗り替える気はないかなぁ〜。しょっちゅう調子悪くなるけど、こいつを気に入ってるから、何だかんだ修理しちゃうんだ。“手間のかかる子供ほど可愛い”っていうじゃん?」
「へぇ〜、本当に車好きなんだね! 良い車に憧れとかはないの?」
「まぁ、1回くらいウォードみたいな車とかも乗ってみたいとは思うよ! でも財産ぶっ飛んで、そんな車買う頭金すらないけどな!」
頬をぽりぽりと掻きながら苦笑するスティーブさん。ぷっと吹き出した私がお腹を抱える。
「あははは! もう、そんなネタで笑わせないでよ〜!」
その瞬間――ついにずっと我慢してたトイレが、限界まできていることに焦る。
あー、めっちゃヤバい……!
海では『全然大丈夫』なんて強がっていたけど、砂浜へ直に座っててお尻冷えてたし、昼食を買った喫茶店にも寄り損ねてしまった。
えーどうしよ。『トイレ行きたい』なんて言えないよ――。
走り始めても、行きで居眠りして見れなかった窓からの景色なんて、全く楽しむ余裕のない私。
「ス、スティーブさん。行きで寄った給油所ってまだ遠い?」
「ん? そこまで遠くないよ! どうかした?」
「ガ、ガソリン大丈夫なのかなぁ〜て!」
片手を挙げた彼から「行きで満タンにしたから、とりあえず大丈夫!」と軽く遇らわれる感じで返される――が、ここで引き下がったら大惨事になる!
「え、でも入れれる時に給油しておいた方が良くない!? ほら、い、いつまた遠出するか分からないし!」
必死にそう訴えると、スティーブさんが考え込む素振りを見せてきた。
「……ん〜言われてみれば確かにそうだな! じゃあ寄ろうか!」
「うん、そうしよ!」
ホッとして胸を撫で下ろす……ってダメダメ、油断したら漏れちゃう! ――。
前方から給油所が見えてきた時の、安堵感が半端じゃない。
何とかギリギリで辿り着き、車を降りたスティーブさんが慣れた手つきで給油を始める。座り過ぎてお尻も痛い……。
「座り疲れたから、ちょっと歩いてくるね!」
「あいよー!」
隙をついた私は、早歩きでトイレへと駆け込んだ――。
難を凌いでトイレから出ると、給油を終えたスティーブさんが、真剣な顔で車の窓を丁寧に拭いていた。
彼の背景には広大な畑が広がっており――太陽に照らされて黄金の野原のようになっている。
気付くと、車へ戻ろうとする足が止まっていた。
帰りたくない……何で行きで居眠りなんてしちゃったんだろ。
立ち止まったまま、少し離れたところからスティーブさんを見つめる。すると私に気付いた彼が、にっこりと笑って手を振ってきた。
もう見つかっちゃった……。
諦めて一歩踏み出し、手を振り返しながらゆっくりと歩き出す。
車へ戻ったら、スティーブさんが「ずっと座ってると、ケツ痛くなっちまうよな!」と微笑んできた。
「ちょっとね! でも、歩いたらだいぶ楽になったよ!」
「良かった。んじゃ、窓拭きも終わったし行こっか!」
「うん……」
何げなく後部座席を見遣ると、ベージュ色のドーナツ型クッションが置かれていた。
「このクッション、どうしたの?」
「あ〜それ? まだあと2時間くらいかかるし、マエルに使ってもらおうと思ってさ! ごめんな、気が利かなくて」
「え、でも1つしかないんでしょ……?」
「お、俺は慣れてるから大丈夫! 遠慮せずに、そこ座って」
もうやめてよ……優しすぎるって――。
しばらくの沈黙が続く車内。
さっきまでお喋りだったスティーブさんも、運転に疲れてきたのか口数が少ない。
微妙な雰囲気の中で腕時計を見てみる。給油所を出発してから、あっという間に1時間以上が経過してしまっていた。
地元に戻った後の予定が曖昧な感じ。でも、それを切り出す勇気が出ない。どうしても“彼とのお別れ”が来そうな予感がして――。
「お、あと30キロか」
その声にハッとして前方を見たら、地元名の書かれた看板が目に入ってきた。
「スティーブさん……変なこと、訊いてもいい?」
「え、変なことって!? 俺、何か様子おかしい!?」
思ったより大きな声で反応されて、目をパチクリさせる。彼の横顔をまじまじ見ると、やたら大汗をかいていた。
「待って、すごい汗かいてるじゃん! 休憩した方がいいんじゃない!?」
「いや大丈夫、なんか暑くてさ〜! それより訊きたいことって、どしたの?」
そんなに暑いかなと疑問に思いつつも、畏まって呼吸を整える。
「あ、あの……スティーブさんって……恋人とかいるの?」
「へ? あーそういう話ね! なんだ、全然変なことじゃないじゃん!」
心臓をバクバクさせながら、質問したことを即行で後悔する。“どうせいるんだろうなぁ”と、保険を掛けるように心中で構えた。
「い、言いたくなかったら全然いいから! そんな“絶対知りたい”なんてわけで――」
「&@◻︎#よ」
「――もないから……ん?」
ちょっと待って。今何て言ったの?
やだ……割って入られたから、上手く聞き取れなかったんだけど。何でこういう時に限って謎なタイミングで答えるの!?
間の悪さに戸惑い、何と返したらいいか完全に分からなくなってしまう。妙な空気が漂い、額にじんわりと汗が滲む。
下を向きながら、上目でチラリとルームミラーを見た途端――スティーブさんと目が合う。
「もし恋人がいたら、黙ってマエルとこんなデートみたいなこと、出来ないっしょ?」
声に若干元気がない。その理由はともかく、今の文脈からさっき“いない的なこと”を言ったのは、間違いないと踏んだ。
「……そ、そうだよね……」
心が軽くなったように「ふぅ」と吐息を吐いていたら、なぜかスティーブさんまで深い息を漏らしていた。
そして、話を膨らませることなく会話が途切れる。本当なら“好きな人がいるのか”とか“好きなタイプ”を聞いたりしてみたかったのに――。
チラホラと人通りが増えていく外の景色。それを眺めながらモヤモヤしていたら。
「あ、地元着いたらどうしようか? 俺は一旦家に帰るけど、マエルはどこに送ったらいい?」
と、ついに避けていた話題へと突入してしまった。彼の言い回しからして、やはりこのまま行けば別行動になりそう。
「……あの、スティーブさん。私よくよく考えたら、ホテルの予約とか、何もしないで飛び出しちゃってるのね」
「よ、予約? それしないと泊まれないの?」
「うん、基本はね。下手したらどこに向かっても、トンボ帰りになっちゃうかも。でも、家にだけは帰りたくないんだ……」
「そっか〜、そりゃ困っちゃうよな〜。野宿ってわけにもいかないだろうし」
「うん……私、どうしたらいいかな?」
スティーブさんが「う〜ん」と悶えるように悩み始める。
ここまで話したんだから、ちょっとくらい察して欲しいな――そう願いつつも膝上に両手を置いて、期待薄に返事を待っていた。
しばらくして軽く肩をすくめた彼が、ミラー越しにニコッと微笑んでくる。
「んじゃ、俺んちにでも泊まるかい? な――」
「いく」
「――んちって! おぅッ!?」
目が飛び出るほど仰天する彼に、もう一度想いを告げる。
「ス、スティーブさんちに……お泊まりします」
絶句した彼は、凄まじい速度で瞬きを繰り返した――。
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