7.緊急事態(スティーブ)

 砂浜に腰を下ろして肩を寄せ合うマエルと、しばらく黄昏れるように海を眺めていた俺。

 空き巣に入った屋敷の令嬢と、こんなことになるなんて思いもしなかった。

 

 しかし、やっと泣き止んで落ち着いてきた彼女とは反対に、俺の内心はかなり焦っていた。



 ちょっともうがヤバい――と。



 タクシー運転手は長時間座って仕事する都合上、腰痛や痔になりやすい。いわゆる職業病ってやつだ。


 さっき小石を投げた力みのせいで、椎間板が微妙に飛び出たっぽい。しかも、ただでさえ医者から『慢性的な腰痛は、半身を冷やしてはいけない』と警告されてる状態なのに、これは非常にまずい。


 まさか、冷たい砂浜にここまで長時間座り込むとは、予想外にもほどがあるぞ……。


 そして、風に靡くサラサラとしたマエルの髪から漂ってくる“シャンプー桃の果汁使ってるのか”ってくらい、甘く可愛らしい香りが超絶たまらん。

 俺とか石鹸で髪洗ってんだけど。


 “早く立ち上がって腰痛の悪化を防ぎたい”という焦り。

 “このままアロマっていたい”という気持ち。


 2つが入り混じる、複雑な葛藤と闘い続けた俺は――。


「……そ、そろそろ行こっか!」


 と、あえなく腰の保護を優先するに至る。しかし、こともあろうか、マエルが小さく首を横に振ってきた。


「ううん、もう少しだけ……このままで居させて」


 何ーッ! 

 そんな気に入っちまったのか、この素晴らしき景色をッ!


「……わ、わかった」


 まぁまぁ『うん』を期待してた俺。

 断腸の思いで少しだけ浮かせかけたケツを、再び氷砂へ着地させる。すると今度は、マエルがコツンと俺の肩に頭を預けてきた。


 ぐふぉ……!

 今の俺に荷重をかけるのだけは勘弁してくれ……!


 だが、お互いに膝を立てて座る身体は脚までピッタリとくっついており、完全に身動きが取れない模様。


『今めっちゃ腰痛だから立ちたいんだけど』


 そんなダサいことを、この神妙な空気感で暴露できるほど俺は強心じゃない……!


 そこへマエルが不意に俺をチラ見してきて、心配そうな顔をしだす。


「あれ……なんかスティーブさん、顔色悪くない……?」


 苦し紛れに「ん? 気のせいだよ」と誤魔化すと、彼女は前を見つめたまま膝に顎を乗せた。よし、肩の荷重が和らいだぞ!


「あ、わかった〜。私がティアラとネックレス投げたこと、後悔してるんじゃない?」


 いや、それはモロ見当違いだ。ケツを下ろしてしまったことに、メチャクチャ後悔している真っ最中なのだから。


「そ、そんなことないよ! 君の叫びシャウトは、150ポンドに見合う最高の出来だった」


「本当……? えへへ、けっこう過激なこと叫んじゃったけどね〜」


『汽車に轢かれてくたばっちゃえーッ! ――』


 確かに彼女の罵声は、イメージを遥かに超えるエグさはあった。だが恐らく、このまま椎間板が爆烈したら、もっと過激な事態に陥ると思う。もちろん俺が。


「あといっぱい泣いたら、すっごいスッキリした!」


(おーそっかそっかそれは良かったじゃあいい加減車に――)


 ほぼ口パクで喋る俺に向かって、マエルが唐突に“はにかんだ笑顔”を見せてくる。


「全部スティーブさんのおかげだよ……ありがとね!」


 それはあの写真と同じ微笑みで――天使が舞い降りてきた瞬間だった。


 言葉を失い、時が止まったように固まる俺。


 そうか。


 俺は、この笑顔を見るために……生まれてきたんだ――。


 急激に腰痛とかどうでも良くなり、悪あがきを止める。今の俺は、完全に“無の境地”へと達した表情をしているんだろう。


 そうなるくらい、彼女の微笑みは衝撃的だった。


「スティーブさん、行こ?」


 途端、俺が決意した“死の覚悟”を一瞬で無に帰すようにマエルが立ち上がる。尻に付いた砂をポンポンと軽快に払う彼女を、ゆっくりと見上げた。


「お尻……冷たくなかった?」


「え、全然大丈夫だよ! ふふ、お肉いっぱい付いてるから!」


 なぬ……? あ、女性特有の脂肪ってやつに守られてるのか、いいなぁ〜。


 冷えてたの自分だけ。

 ショックを受けた俺が小声で「そうか」とだけ返して、彼女の尻を羨むように凝視していたら。


「ちょ、そんなジロジロ見ないでよ、もう〜!」


 照れ笑いして見せるマエルが、サッと両手で尻を隠してきた。天使すぎ。


「ははは、ごめんごめん! じゃあ戻ろっか、ガチで」


「うん!」


 良かった。

 表情も明るくなって、どうやらすっかり元気になってくれたみたいだ――。


 車へ向かうため、少し急な丘を登る。


 なるべく腰を刺激しないよう集中してマエルの前方を歩いていると、彼女が後から俺の小指をキュッと握ってきた。


「ん?」


 振り返ると、口を真一文字に結んで目を逸らしている。そんなマエルの柔らかな手を握り直し、引っ張り上げながら歩いた。


 車に辿り着いて一息つく。少し疲れてそうなマエルが、惜しむように海を眺めた。


「本当にいつまでも見てられる、素敵な海だよね……」


「もっと遅い時間だと、あの地平線に夕陽が沈む景色も見れるんだ。それも心が洗われるみたいに、すごく綺麗でさ!」


 マエルが哀しそうな表情を浮かべて「そうなんだ……」と遠い目をしている。


「おーそんな顔すんなって! また今度連れてきてあげるから!」


「……絶対だよ?」


「ああ、約束だ」

 

 嬉しそうにニコッと微笑んだマエルが車に乗り込む。運転席にある、腰痛軽減用クッションの位置ベスポジを入念にチェックしてから、座席に腰を下ろした――。


 次はどこへ行こうかという話になろうとした時、ルームミラーに映るマエルが憂う眼差しで見つめてきた。


「スティーブさん……今更だけど、お婆様は大丈夫なの? 具合悪いんだよね?」


 無駄な心配をかけないように黙ってたけど、やはり突っ込まれたか。


「あー、ばあちゃんね。まぁ看病してるとは言っても、付きっきりになるほどじゃないんだ。飯も自分で作ってるくらいだし、そんな心配しなくて大丈夫だよ!」


「でも、重病なんでしょ? やっぱり心配だし、とりあえず地元に帰ろうよ?」


「え、いいのかい?」


「うん! お陰様で、私の方はだいぶ気が晴れたから平気! それにこれ以上貴方を連れ回すのも、なんか申し訳ないしさ……」


「そっか……」


 貴族令嬢なのに気取った素振りも見せない、本当に優しい子だ。そう感心しながらエンジンをかけた間際、ふと腹が減っていることに気付く。


「あ、お腹すかない? ココアも買うし、どっか喫茶店にでも寄ろうよ!」


「もうお昼過ぎてるもんねー。あ、テイクアウトでも良い? 溢さないように、気を付けて食べるから」


「テイクアウト? 店内で食べないの?」


 ルームミラー越しにそう尋ねると、マエルが寂しげに少し俯いた。


「あんまり、知ってる人とかに遭遇したくないんだ……ごめんね」


 あー、“社交界で醜聞がうんたら”とか言ってたもんな。悪いことしてないマエルが、何でそんなこと気にしなきゃならないんだ。理不尽だろ。


「マエルが謝ることじゃないさ……――」


 と、溜息を漏らしつつ、ギアを入れて発進した――。


 地元方面へ向かいながら、道端で見つけた喫茶店に寄る。マエルを車に残し、サンドイッチ2つとココア1つを購入して車に戻った。


「はいココア、熱いから気をつけてな! あとごめん、サンドイッチはチーズサンドなかったから、ハムとレタスなんだけどいい?」


 マエルが「全然いいよ! ありがとう〜」と、目を輝かせて受け取る。


「あれ? スティーブさんのココアは?」


「ん? 勝負に負けた俺はいいよ! 飲み物とかなくても食べれるし」


 そういってサンドイッチを頬張る。厚切りハムの絶妙な塩気と、シャキッとしたレタスの歯応えがマッチしてて超美味い!

 感動していた矢先――モジモジしていたマエルが「……ココア、一緒に飲も?」と言い出した。


「ブッ!!」


 吹き出たサンドイッチがダッシュボードやらフロントガラスにまで散らばり、焦った俺は即座に雑巾を取り出した。


「ど、どうしたの!?」


 驚くマエルを尻目に、身を乗り出してフロントガラスを拭いた瞬間、腰に猛烈な激痛が走る。


 ぐおッ……しまったッ!


「え、な、何か冷や汗かいてない!? 大丈夫!?」


「い、いや、ちょっと照れてちまっただけさ! あのねマエル君。そういうのは食事中の男に対して言っちゃダメよ絶対マジで――」


 アウトだ。


 これは医者から緊急事態用に処方されていた鎮痛剤を飲まないと、取り返しがつかなくなる。やはり、家に帰ることは必須……!


 でも家に着いた途端、礼儀正しいマエルが『挨拶したい』とか言い出しそうで怖い。


 出来ることなら、あのばあちゃんとマエルの接触は、避けたいところなのに――。

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