第6話
俺は眼前に広がる光景に圧倒され、しばらく立ちすくんでしまった。我を取り戻したのは少ししてのこと。きつく握りしめたMP7の銃口を上へと傾ける。
だだっ広い闇の向こうには天井があるはずだが、ぼんやりとしていて見えない。光を左右へ向ければ、線路の両側が高くなっているのがわかった。
「ホームか……?」
それにしてはやけに広い。上だけではなく、ホームも冗談みたいに広い。こんなに広いのは梅田駅くらいだが、ここまで天井は高くない。それに、フレスコ画のようなものは描かれちゃあいないだろう。
これじゃあ教会か何かのよう。光に映された、あまたの人々、宗教的モチーフに溢れた絵は、この暗闇の中でも息を呑んでしまいそうになる。
俺は、ふらふらと導かれるように、ホームへ上がった。
まっすぐ進んでみても、人はいない。光もない。動物もないように思われた。
いや――。
脚に何かが触れる。嫌な予感がして、反射的に足を引っ込める。光を向ければキラリとした何かがそこには張ってあった。
ピアノ線。
線の片方を追いかければ、物々しい柱が見えた。この広大な空間を支える柱はまるで大樹のように太く、立派だ。神殿のような彫刻が施された根元には、ガソリンタンクがあった。――ピアノ線と発火装置付きの。
つまり、細い線に一定以上の力がかかった瞬間、発火装置が動き、ガソリンに引火する。あの量だ、可燃性の低いガソリンとはいえ、それなりの爆発が生じるだろう。柱は傷つかないが、ヒトくらいならたやすく吹っ飛ばせるくらいの威力はあるように思われた。
当然、俺の体は弾け飛び、子供によって引きちぎられ、綿を出すぬいぐるみのようになっていただろう。
遅れて、ジトッとした汗が穴という穴から噴き出してくる。
同時に、ここには何者かが存在しているということでもある。俺はライトを消した。原始的なトラップとはいえ、こんなものを仕掛けているやつが友好的だとは考えられない。
「誘拐犯か……?」
呟き声に反応するかのように、足音が聞こえてきた。柱の陰に隠れて、耳をそばだてる。複数の足音と思われたそれは、コンクリートに反響し徐々にズレたために複数人のように聞こえただけで、一人のものらしい。それだけの広大な空間とそれらを埋め尽くす静寂が、ここには広がっているということだ。
トントントン。近づいてくる足音は上方から聞こえてきたが、階段を下りてきている。
そっと柱から顔を出して、鼻歌交じりにこっちへと近づいてくるやつを見る。
聞いたことのないメロディの曲を口ずさみ、こちらへと近づいてくる影。手にはAK47とランタン。服装は、上から下まですっぽりと防寒着で覆っており、首にはマフラーをし、顔にはバラクラバまで。北海道民でもそこまでは着込まないのではないか。
その着ぶくれた男は、手元のランタンから放たれるぼんやりとしたオレンジ色の光を受けてもなお、どこか青白く見えた。不健康を通り越して、マネキンのような感じさえあった。
俺は彫りの深い顔をなるべく見ないようにしながら、じっと柱の前にしゃがみ込む。
――こっちにくるなよ。
そう祈っていたのだが、男は俺の方へとやってくる。
ガラスの中で揺らめく灯が、切れたピアノ線に影をつくる――。
バレた。
男が胸をうごめかせた瞬間、俺は柱の後ろから飛び出す。
物音を上げるつもりはない。MP7の硬い銃底で頭をひと殴りしてやるつもりだった。ヘルメットもしていないやつなら、それだけでノックダウンできる。
はずだった。
ぐにゃり。
そんな擬音が聞こえてしまいそうになるほど柔らかな感触が、握り締めたMP7のボディ越しに伝わってくる。頭蓋をかち割り、ぶよぶよとした脳みそをつぶしたような感覚ではない。そもそも硬いものを砕く感触はまったくなかった。
ただ、ぶよぶよとしたものが形を変えただけ。
俺は、それが何なのかわからなかった。不定形の何かだと思った。ゴム人間というのが仮に存在するとしたら、そいつを殴ったらこのような感触が返ってきそうだ。
だが、ゴムですらなかった。
――ああそうだ。男は人間なんかじゃない。ヒトの形をした何か。
ストックに接した男の皮膚がゾワゾワと蠢いた。その不可解な動きを凝視していたら、打撃を与えた部分の皮膚が剥がれ落ちた。
いや、それは皮膚では決してない。黒真珠のような瞳を持った、白い生命体。
波打つ男の顔は――いや、顔だけじゃない。全身が、複数の青白い生命体によって構成されていた。
ヒト型の群体。手と足と頭を、肥満体のホモ・サピエンスに近づけた、でくの坊。
それを見た瞬間、物理的な攻撃が意味をなさないことを俺は悟った。複数の身を寄せ合っているから流動的に形を変えることができる。殴られても、そこをへこませることで衝撃を軽減させているのだ。
この見たこともない醜悪な存在は高度な知性を持ち合わせている。あるいは、収斂進化的にそうなったのか――ここにはいない仲間なら何か手がかりを見つけてくれるかもしれなかったがそれは叶わない――俺はそいつが伸ばす腕をなんとかかいくぐり、逃げ出す。
無数のピアノ線が張られているに違いない場所を、駆けるなど自殺行為もはなはだしい。地雷原を走るのと何ら変わらない。だが、この時の俺はどうかしていた。自衛隊の特殊部隊に所属している身でありながら、気が動転していたのだ。
だが、そうしなければ命はなかった。
背後で発砲音。あいつらは逃げる俺へ向け、AK47をぶっ放したらしい。30口径の弾丸が、俺へ殺到する。髪をかすめた死の弾丸は、つるりとした大理石のような床で跳ね、光を放つ。
錯乱状態の俺は身を隠すことなく一目散に走った。それが功を奏したのかもしれない。弾丸の雨に囚われることはなく、ピアノ線を切ることもなかった。
ただひたすらに階段を駆け上がり、踊り場を走り――。
またしても体がふらついた。世界が揺れる。酩酊感は、三度目ともなれば、心も体も慣れ始めてきたのかもしれない。立ち眩みのようなものも少なく、そのまま動き続けられた。
目の前に広がっていた巨大空間がかすむ。瞼をこすれども、視界に変化はない。俺が見ている景色が変容している。
二重三重四重のフィルムをほんの少しずつだけずらしたかのように、輪郭がぼやける。そのずれは大きくなったかと思えば、小さくなる。波のように揺れるように。それが三半規管に影響を与えているのかもしれないが、この極限状態が引き起こす幻覚症状のような気がしないでもない。
次の瞬間には、前回前々回と同じように、見慣れない――しかし地下鉄という意味では見慣れた――空間へと俺は迷い込んでいる。
そこは、先ほどほどは寒くもなく、多湿でもない。四角いトンネルは、ロンドン地下鉄らしき場所と同等の広さ。
背後を振り返れば、広い空間、広い階段をよたよたと上ってきていた白い人型の存在は霞と消えている。かわりに現れたのは、どこまでも続くトンネル。
安堵すると同時に、何か違和感を覚えた。
これまで地下鉄らしき場所を転々としていた。だが、ここには地下鉄を連想させるものが何もなかった。
枕木も線路も何もない。コンクリートのトンネルと、それを埋め尽くす漆黒と息のつまるような空気だけ。あとは迷い込んだ俺。
ある意味で、東京メトロのような感じはあったが、何やら違うような感じもあった。
頼りの綱ともいえる愛銃を握り締め、先へと進む。この場にとどまるのだけはしたくなかった。……あいつらに見つかるような気がしたから。
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