第8話

 クモを追いかけて逆走していたら、世界が揺れた。


 次の瞬間、モダンアートのような殺風景なコンクリートは姿を消す。緑色をしたものがびっちりと壁を覆っているところを見るにまたしてもロンドンだろうか。


 吐き気を堪えながら前を見れば、白いクモが天井を這うようにしながら先を急いでいる。酔ったような頭を軽く振り、俺はそいつを追いかける。


 百メートルいや、もっとか。とにかく走っている最中に、また、世界がぐらついた。


 以前よりも間隔が短い。あの現象を引き起こしているのは白いクモなのか。


 多重世界に迷い込んでしまったかのような世界の中で、輪郭をはっきりとさせた白いクモが進む。横でも見てしまえば妙なものが見えそうな気がして、ただ不健康な色をしたあいつだけに視線を注ぎこみひたすら駆けた。


 極彩色の通路の中にはいろいろなものが見えた。


 真っ赤な日の丸のような球が描かれた万国博覧会のポスター、中国語の落書き、銃、白骨、奇妙な文様……。


 雑多なものが浮かんでは消え、浮かんでは消え。夢か幻か。現実の俺は気を失ってその辺で伸びてるんじゃなかろうか、なんて思ったりもする。


 だが、床を蹴る感覚。肌にまとわりつく、ある種の空気は幻覚などではなく、リアル。作戦行動時に感じる、ひりつくようなもの。


 油断したら、取って食われる。


 何に?


 ふと浮かんできた疑問に答えるものはいない。無意識に、あの不健康な色をした昆虫らしきものを恐怖していたらしかった。あのぶよぶよとした感触……! 銃器越しとはいえ、この手には確かに残っている。


 今度襲われかけたら、銃で攻撃するしかない。


 それも効き目がなかったら。


 ……その時のことは考えないようにしよう。じゃないとやってられない。


 そうやって、意識を一方向だけに集中させていたおかげか、さほど気持ち悪くなることもなく、世界が収束していく。


 やはり、俺は別の空間にいた。ジメジメとした空気から察するに三度目のイギリスか。


 だが、湿度は以前よりもずっと高く、まとわりつくように粘度が高い。ぬめぬめとした空気は、じとっと汗ばんでしまうほどには熱を帯びている。


 高温多湿。ほの暗い場所を好む生物にとってはこれ以上ない空間。


 額に伝わる汗は、周囲の暑さによるものか、あるいは冷や汗か。どちらにせよ、虫は俺のことなんて知らぬ存ぜぬといった調子で、先へ先へと向かっている。その背中は、帰宅途中の子どもといった感じ。


「暑いな……」


 正直なところ、俺は驚いていた。あの化け物と遭遇したのは、こことは真逆の環境の地下鉄だった。トラップもあったし、見回りが行われているということは、根城があるとすれば、寒い場所だとばかり思っていた。


 ここは、通過点に過ぎないのか。


 どうやらそうではないらしいと分かったのは、少し歩いてのこと。


 現在、俺はライトをつけていない。周囲は完全な闇というわけではなく、ところどころに松明やら焚火やらがあった。


 つまりはヒトがいる。あるいはヒトを模倣した化け物が。


 だがそのおかげで、俺は何とか白いクモを追いかけることができている。胸がズキンズキン痛むほど緊張はしてくた。いつ何時、彼らのような存在が姿を表すのかわかったものじゃない。相手はライフルで武装しているかもしれないのだ。


 視線の先、揺らめくたき火の明かりに照らされた通路の入り口に、空き缶がいくつも浮かんでいた。缶が浮かんでいるわけがない。近づいてじっと凝視したら、ピアノ線が缶から伸びて、天井へと続いている。


 たき火によって温められた空気は、温度の低いこちらへと流れてくる。焦げ臭さとともに風が吹いてきて、缶をふらふらと押す。


 なんだろうか、とちょっと考えてみる。バドワイザーとコカ・コーラの缶がぶつかって、金属音が小さく響く。たぶん、鳴子か何かなんだろう。侵入者の存在を探知するための原始的なもの。


 風を受けてくるくる回転する緑と赤の缶に触れないようにしながら、すり抜ける。


「ん……」


 そうこうしている間に、追いかけていたクモもどきを見失ってしまった。どこへ行ったのか。缶のセンサートラップの先は一本道。隠れられるような場所はない。先へ行ってしまったとしか思えない。


 もしくはワープしたのか。どちらにせよ、先へ進んでいくしかなかった。


 進むにつれて、通路は複雑さを増してきた。まっすぐしかなかった通路が、迷路のように分岐していく。それに加えて、ときおりワープが行われてしまう。今自分がいる場所なんて覚えられないし、マッピングもできない。


 俺は、リュックに入れていた携帯食糧をほおばりながら歩く。


 この空間は場所の違う地下鉄たちをくっつけてできているらしかった。サイズも大きさも年代も違うメトロたち。忘れ去られようとしていた歪なチューブたちを、迷宮へとまとめ上げているのは、何らかの力。


 超自然的存在。


 それは、あの白いクモであり、そいつらがまとまってできたヒトもどきだろう。


 似たような存在は見たことはない。だが、そういった、自然の摂理に反するような冒涜的生物がいるというのは紛れもない事実で、特殊作戦群のデータベースにも残されている。


 青森の砂漠にて発見された、砂上を泳ぐ高層ビルほどのミミズ。


 ボストン近郊の港町で目撃された、ヒキガエルにも似た軟体生物。


 黄色のマントを羽織った人間を連れて夜空を飛んでいるところを目撃された、ガーゴイルにも似た異形。


 そのどれもが、世間一般ではオカルトとして流布している噂であるが、ほぼ事実である。


 そして、今回も、その超自然的存在による『災害』の一種らしい。


「まずいことになった」


 相手は人知の及ばない生物であり、きちんとした装備で立ち向かってやっと撃退できるかといったところ。先のボストンの港町では都寺隊長がアメリカの特殊部隊と協力したらしいが、その際も、犠牲者は多かったらしい。


 今回だってそうだ。やつらは人に成り済ますことができる。銃を携帯しているところを見るに、武器だって使えるのだろう。


 あまりにも危険だ。今すぐにだって地下鉄の入り口を封鎖して、この害虫を駆除したいくらいだ。だが――。


 異界のようになってしまったこの地下迷宮にいる限り、仲間と情報を共有することはできない。もちろん、危険を訴えることも仲間を呼ぶことだって。


 とにもかくにも脱出しなければ。


 だが、俺はどうやら、迷宮の中心へといざなわれているらしい。


 そう気づいたのは、俺の前に立ちふさがる原始的な罠の数が増えてきたからだが、それだけじゃない。


 白い虫が、その姿を現し始めた。ゆったりと、気ままにそこここを這いずり回っている。


 闖入者たる俺を見上げたかと思えば、次の瞬間には、そいつらはそっぽを向いてピチョピチョ湿り気のある音を出しながら移動していった。その動きにしたって、俺が追いかけていたやつほどは素早くなく、我が家といわんばかりにくつろいでいる。


「ここらがやつらの巣なのか」


 ひとり呟いてみたが、蟲たちは答えない。ため息をついて、先へと進んでいく。


 ……今思えば、蟲は何も言わなかったが迷宮は答えてくれていたように思える。白い虫たちが増えたあたりでは奇妙なことに、ワープが一切起きていなかった。

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