池に棲む

森野湧水

池に棲む

 美咲ちゃんは少し酔ったのか、大きな目を潤ませながら言いました。

「今日は、こんな素敵な宿にお誘いいただいて、本当に嬉しいです」

 結構調べて予約した旅館です。気にいってもらえて安心しました。

「来てもらえて、僕の方が嬉しいよ」

 僕の気持ちに嘘はありません。豪華な夕食を挟み、僕たちは向い合っています。

「本当ですか? なんか安曇さんって会社では、少し近づきにくいなって思ってたんですよ」

 純和風の十二畳ほどの部屋です。薄暗い床の間にはナツツバキが一輪、生けられていました。

「あんまり人と関わるのが好きじゃないんだ」

「そうなんですか。安曇さん、いくら誘っても全然振り向いてくれないから、女に興味ないのかと思ってたんですよ」

 それから小さく「暑いなあ」と呟くと胸元のボタンを二つ外しました。

 美咲ちゃんは僕より三歳下で、去年の新入社員です。うちの部署に配属されたときは、別の部署の男性社員からさんざん羨ましがられました。それほどに美咲ちゃんは可愛かったのです。でも美咲ちゃんはトラブルメーカーでした。既婚未婚関係なく男性社員にすり寄り、すべての女子社員の陰口を言う。自分が注目さなければ我慢できないようでした。

「どうしたんですか。安曇さん、食欲ないんですか?」

 美咲ちゃんの前の料理はあらかた無くなっているのに、僕はつき出しの酢の物でさえ手をつけていません。

 今まで過ごしやすかった会社生活が、美咲ちゃん一人のせいで憂鬱になりました。

 だから美咲ちゃんを誘ったわけですが、自分の行為が肯定されないことは分かっています。 

「なんか緊張してね」

 これは本音です。

「意外、安曇さんって真面目なんですね」

 美咲ちゃんは大きな胸を揺すりながら、いたずらっぽく笑いました。

「でも、なんで今日だったんですか?」

 上目がちに美咲ちゃんは尋ねました。僕が今日、七月七日にこだわって、年休を取ってまで旅行へ行こうと誘ったことに、疑問を抱いているようです。

 それでも応じてくれたのは、今までそっけない態度しかとらなかった僕が、拝むように一緒に旅行へ行って欲しいと頼んだことに、自尊心をくすぐられたからなんでしょう。

「そうだよね。気になるよね」

 何もかも秘密にするのは悪いと思いました。

「実は、七月七日は僕の家族の命日なんだ。父さんも母さんも妹も七月七日に亡くなっている」

「え!」

 なにかロマンチックな理由を予想していたようで、美咲ちゃんは悲鳴のような声を上げました。

「こんな場所でこんな話をしてごめん」

「ううん。そんなことないよ。安曇さんはこの日に一人でいるのが耐えられなかったんだよね」

 急に美咲ちゃんは、砕けた口調になりました。

 きっと、僕が事故か何かで一度に家族を失ったと勘違いしているのでしょう。本当はバラバラに亡くなったのですが、それを説明する気はありません。

「大丈夫。美咲が一緒にいてあげるね」

 てんぷらの油で、美咲ちゃんの唇はつるりと光っています。

「そうだね。ありがとう」

 僕は心からお礼を言いました。

 

 食事が終わり、部屋に布団が敷かれました。

 ふわふわの布団に、美咲ちゃんのテンションは上がったようです。

「こんなところに泊まるの初めて。まるで新婚旅行みたい」

 体を預けるようにしなだれかかるのをそっと避けると、僕は言いました。

「先に温泉へ行かないか。ここの温泉に入ったら肌つやがよくなるらしいよ」

 美咲ちゃんは興味を惹かれたようです。

「ええ、そうなんだ。じゃあ、もっときれいになっちゃおうかな」

 機嫌をよくすると手早く入浴の準備をして、部屋を出て行こうとしました。当然混浴ではありませんから別々です。

「僕もすぐ行くよ。多分僕の方が早く上がるから、鍵は持ってるね」

「はーい」

「ああ、美咲ちゃん。アルコールが入っているから、気を付けて」

 こんなことを言ってしまうのが僕の嫌なところ、偽善です。

「わかってるって」

 美咲ちゃんが行ってしまうと、僕は風呂に入る準備を止めて、その場に脱力しました。

 ああ、またあれが起こるんだ。

 部屋にはいくつも明かりがあるのか、影の輪郭がぶれています。

 僕は頭を抱えながら、子供の頃のある出来事を思い出していました。


 僕は日本海側の、七本松というあだ名の村に住んでいました。村の周辺に七本の松が植わっていたのです。両親は米を作る農家でした。といって労働がきついのは農繁期だけで、比較的のんびりした毎日を送っていたと思います。


 あの事件が起こったのは、僕が五歳の七月七日のことでした。

 僕と父さんは山へ山菜摘みに出かけたのです。妹が生まれたばかりで、母さんは家で留守番をしていました。

 梅雨の合間のよく晴れた初夏でした。妹の誕生でしばらくうちは慌ただしかったので、久しぶりに僕を山で遊ばせてやろうという両親の思いやりでした。

 僕はその思惑通りチョウやバッタに夢中になって、野山を駆け回りました。

 父さんが山菜摘みに疲れたころ、母さんが作ってくれたおにぎりを食べました。

 鏡のように澄んだ池のほとりで、ひどくのどかな時間でした。小鳥のさえずりが聞こえていました。池は僕の家ぐらいの位の広さがあったと思います。

「この池には、とても怖ろしい主が棲んでいるんだよ」

 ザリガニでもいないかと池を覗き込んでいたら、父さんが言いました。

「だから村のみんなは、この池を大切にしているんだ」

 水面はキラキラ光って、浅瀬には小石や藻のようなものが見えました。でもすぐ深くなっているみたいで、藍色の闇が広がっています。

 主どころか小魚一匹いなくて、僕はがっかりしました。

 父さんはご飯を食べ終わると、山菜摘みを再開しました。


 なぜそんなことをしたのかと聞かれても、退屈していたからとしか答えようがありません。

 なんとなく小石を一つ、その池に落としてみたのです。

 小石はポチャンと音を立てると浅瀬を転がり、そのまま深いところへ落ちていきました。しばらくすると池の奥深くに届いた証のように、コトリと小さな音がしました。浅瀬は緩く傾斜しているようです。水面では丸いわっかが広がっていました。

 面白くなっていくつもの小石を同時に投げると、水面でわっかが重なり、コトリコトリと音がしました。

 ふわふわと風が吹いていて、池を囲む広葉樹がかんざしみたいな花を揺らしていました。


「おい、何をしてる!」

 父さんがこちらを見たとき、僕は自分の頭ぐらいある大きな石を、棒を使って池の中に投げ込もうとしていました。もう少し大きくなって、それがテコの原理だったと知りましたが、当時はそんなこと理解していませんでした。

 ただこんなに大きな石を動かせるのだと、得意になっていたのです。

「父さん!」

 僕が手を振ったとき、大きな石がごろりと回転して、池の中に落ちました。


 ぐしゃりという音とともに鈍い手ごたえを感じたのは、すぐのことでした。

「何をした?」

 若い枝に止まっていた鳥たちが一斉に飛び立ちました。父さんの顔は陰になっていて僕からは表情が見えません。

 さっきまであんなに晴れ渡っていた空が、みるみるうちに黒い雲に覆われていきました。

「石を、大きな石を……」

 僕が言い終わらないうちに父さんは走って来ると、僕を抱きしめした。そのときぶわりと青臭い山菜の臭いがしました。

 そしてくるりと向きを変えると、全速力で父さんは走ったのです。

 風が吹いて波立つ池の水面を、僕は父さんの背中越しに見ていました。波は黒く激しく、まるで怒っているみたいでに見えました。

「父さん速く!」

 子どもながらに、いけないことをしたのだと思いました。速く逃げなければ大変なことになる。


 父さんは止まることなく家まで走り続けました。

 家で待っていた母さんは、父さんの脅えた様子を見てただ事ではないと思ったようですが、何も言いませんでした。

 そして父さんは僕に、今日のことは絶対に誰にも話してはいけないと口留めをしました。話したら祟りがあると。

 でもその夜、父さんは亡くなりました。

 朝になっても父さんが起きて来ないので部屋へ行ってみると、父さんは恐ろしい物でも見たかのようにぐわっと目を見開き、何かを掴むように手を宙に浮かせた状態で死んでいたのです。父さんの体はびしょびしょに濡れていました。水死でした。


 やがて母さんが逮捕されました。

 眠っている父さんの顔を、水を入れた洗面器に押し付けたと思われたようです。母さんは犯行を否認して、裁判では泣き喚いたと聞きましたが、あの夫婦は不仲だったいうでたらめな噂が出回り有罪になりました。


 僕と妹は引き取り手がおらず、施設で暮らすことになりました。

 

 一貫して無罪を主張していた母さんが亡くなったのは、七年後の七月七日のことでした。それも水死です。監視が付いている刑務所でどうやって水死したのか謎でしたが、警察は詳しく教えてくれませんでした。


 僕の中で一つの疑念が芽生えました。 

 父さんと母さんが亡くなった日にちと死因が同じだったからです。


 それから七年後の七月七日に妹が亡くなりました。妹には悪い友達が多く、毎日その友達と出歩いていました。

 その日友達と遊びに行こうとした妹を、僕は止めました。

「両親の命日ぐらい、家にいたらどうなんだ」

「はあ? お兄ちゃん、真面目に言ってる? 母さんが父さんを殺したから、私たちは苦労してるんだよ」

 そう言われて、僕は何も言い返せませんでした。

 河原で乱闘になった仲間のけんかに巻き込まれ、なぜか妹が一人だけ川に落ちたそうです。


 このとき僕の抱いていた疑念は確信に変わりました。僕の親しい人間が七年ごとの七月七日死ぬのです。

 遊び半分で池の中に大きな石を投げ込み、僕は池の主に怪我をさせてしまったのでしょうか。それとも主の大切な存在を殺めてしまったとか。僕は池の主の怒りを鎮めるために、七年に一度生贄を捧げなくてはいけないのです。


「ごめんね。美咲ちゃん」

 声に出して謝りました。

 どうせ誰かが死ぬなら目障りな人間がいいなんて、僕は傲慢です。

 父さんの青白かった死顔を思い出しました。母さんや妹もあんなふうに苦しんだのでしょうか。そして美咲ちゃんも……。


 そう考えたとき、ぽたりと冷たいものが頬に当たりました。手で触って見ると水のようです。

 なにげなくその手を鼻へ持っていくと、初夏の山菜の臭いがしました。

 全身の毛穴が開き、汗がぶわりと吹き出しました。

 もしかして……。

 自分が間違っていたことに気がつきました。

 池の主は僕を祟り、七年ごとに僕の近しい人を奪っています。

 でも一緒に旅行へ来ているだけの美咲ちゃんが、僕の近しい人とは言えるでしょうか。

 家族を奪いつくした池の主が次に狙うのは、僕自身なのです。

 落ちてくる水は僕の頬を伝い、畳に黒い染みを作っています。


 僕は震えながら首をゆっくりと動かすと、水が垂れてくる天井を見上げました。

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池に棲む 森野湧水 @kotetu1

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