第10話 散歩前の寄り道

 そして、その日の午後。


「き、来てしまった」


 周囲の至る所から鳴り響く、金属を叩く音。何かを削るような機械音、断続的に繰り返されるブザー。見上げれば、やや曇り気味の空と青い屋根。


 自分でも信じられないが、私は今、お粥屋の仕事を終えて工場区に立っていた。

 なぜかって?


「それもこれも……」


 つぶやきながらポケットに手を突み、分厚く油で黒く汚れた作業手袋を取りだす。

 お粥屋からおじいさんが帰る直前、半ば強引に押し付けてきた手袋だ。


『そうじゃそうじゃ。さっき伝えた青屋根工場の工場長に、こいつを借りっぱなしだったわい。ちょうどいい機会じゃから、悪いが届けてくれんかの。グレイドの借り物を返しに来たと伝えればわかるわい。いやー、わし天才ゲフンゲフン』


 どこをどう見ても安っぽい作業用の手袋で、裏返してみてもやはり何の変哲もない。返却を待つほど重要な物には見えなかった。

 なんだかうまいこと丸め込まれたような気もするけど、だからと言ってベルの散歩以外に午後の予定がないため断る理由もなかった。

 軽く工場区に寄ったところで、散歩の時間にさほど影響はない。


「はぁ。ま、いっか」


 私は再び手袋をポケットに突っ込むと、きょろきょろと工場の入り口を探した。

 トタンづくりの波板に囲まれた工場は、人の入り口らしき扉が見当たらない。壁の面積を半分ほど占める、屋根まで届く巨大な搬入用の扉があるもののかなり重そうだ。

 この大扉を開けて中に入るのは気が引ける。できれば普通のドアからお邪魔したい。


「裏口でもあるのかな」


 私は通りに面していない裏側へと足を運んだ。

 工場の背側には別の工場が建っていて、間には薄暗くじめじめとした通路があった。互いの屋根が重なってできたトンネルはずっと奥まで続いている。おまけに明かりもなく、奥からは低い機械音だけが反響していた。お化けが出そうな雰囲気がダダ漏れだ。


(暗すぎ狭すぎ怖すぎ! こんなところに入っていくのは結構嫌かも……)


 私は腕を組み、あごに手を当てて通路の前をうろうろと行ったり来たりする。


「あー誰かこの工場にどうやって入ればいいか、教えてくれないかなぁー」 


 わざとらしく口にし周囲を伺ってみても誰もおらず、木枯らしだけが吹いていた。 

 ため息混じりにふと目線を上げると、一つだけ半開きの窓が目についた。

 三階ほどの場所に位置するその窓は、まるで救世主のように輝いて見える。


「ちょっと高いけど、あそこからなら……っと」


 視線を素早く建物に這わせ、登れそうな場所を探す。都合のいいことに、雨どいから伸びたパイプが、窓を避けて地面まで伸びていた。手を伸ばせば届く間隔で壁にボルトで固定されており、はしご代わりになりそうだ。

 見れば見るほど、うずうずしてしまう登り道。


(よーしっ!)


 気が付けば、私は当初の目的も忘れ、どうやったら窓まで登れるかを夢中で思案する。


「止められているねじの本数、固定されている金具の径を考慮すると……。うん、荷重を無理にかけなかったら、登れる!」


 頭の中で目まぐるしく展開された計算式が、一瞬で答えをはじき出した。

 これは私の数少ない特技で、空を飛ぶことに関わる落下速度計算や何かを登ることに関する荷重計算は、誰にも速度で負けたことはない。

 あの成績優秀だった先輩でさえ、私に勝つことはできなかった。

 ただちゃんと公式を覚えているわけではなく、感覚的に計算したら答えが出てくるだけなので、試験ではいつもカンニングを疑われたけど。

 この能力を思い通りに使えたら、もしかすると私は今頃王都の学院で大発見をしていたかもしれない。

 私はパイプに足をかけて、慎重に登り始める。


「ま、それができないから今ここにいるんですけどねっ」


 どうも私の頭は好きなこと以外についてはへそを曲げてしまうらしく、まともに仕事をしてくれない。おかげで商売に関する難しい計算や、歴史の授業の点数はひどいものだった。操竜士の筆記試験も、連日徹夜で教科書の内容を詰め込み、赤点すれすれで合格したに過ぎない。

 だから私は結局凡人なんだと思う。


「あの試験むずかしすぎだよ。ほんとあとちょっとで落ちるとこだったっ……て、うわぁっ!」


 体重をかけた金具のボルトが一つ、錆びつき折れていた。足を踏み外したものの、幸いパイプにしがみついたおかげで落下は免れた。

(余計なこと考えてたら、ケガしちゃうね。集中集中)

 私は気を取り直し、細心の注意を払いながら再び登りだす。

 なんとか無事に目的の窓際までたどり着くことができ、ほっと一息。

 たどり着いた窓からこっそりのぞき込むと、ひしめく機械の間を工員たちが忙しなく行き来していた。


「うわぁ、大きな機械がいっぱい……」


 孤児院の履修科目で工学を選ばなかった私には、どの機械が何をしているのかさっぱりだ。それでも普段見ない光景は目新しく、見ているだけでも面白い。

 つかの間の工場見学を楽しんでいると、壁際のすみっこ、油で汚れた金属のテーブルの傍に見覚えのある顔を見つけた。


(ロスカだ!)


 他の人たちが機械の操作で汗を流す中、ロスカはまるで仲間外れのようにひとり、拡大鏡を使って一つの部品を様々な角度から眺めている。

 周囲の機械や行員は目まぐるしく動くのに、ロスカだけが時間に取り残されたように静止していた。いや実際には細かい部分のチェックをしているだけかもしれないけど、なんというか……。


(地味、だね……ロスカ)


 火花を散らして鋼板を切るとか、赤く燃える鉄を叩くとかしてくれた方が、まだ見ていて暇をもてあそばなかっただろう。

 しばらく見ていたもののロスカに動きはなく、だんだん飽きがくる。

 ちょうど私がもう降りてしまおうかと思ったところで、低い男性の声が工場に響いた。


「ロスカ君、どんな塩梅だね」


 落ち着いた声にもかかわらず、その声は繰り返される機械音を縫ってよく聞こえた。

 私は下ろしかけていた足を戻し、再び窓をのぞき込む。

 他の工員たちと違い、パリッと皺の伸ばされた作業服に身を包んだ恰幅のいい男性が、ロスカのもとへやってきた。


「ベンさん、お、お疲れ様です!」


 ロスカは慌てて手に持っていた部品をテーブルに置き、直立不動の体勢を取った。


「そんなにかしこまらなくてもいいよ。で、どうだね? バルブハンドルの調子は」


 緊張した面持ちだったロスカの顔が途端に真剣な表情へと変わる。あごに手を当てながら眉間に皺を寄せ、ロスカは先ほどの部品へ目線を送った。


「わずかに曲がってます。これだと精密な冷却水解放弁を操作する途中でハンドルが回らなる恐れが」

「やはり、か。少し引っ掛かりがあったのでもしやと思ったが。恐らく輸入した型自体が湾曲しているのだろう。こいつが働かないと、輸送列車の機関部はオーバーヒートしてそのうち止まってしまう。単純な部品だが、相手側のねじ山も特殊なせいで、替えが効かない。修正するのにどれくらいかかるかね?」


 ロスカは少し逡巡したのち、顔を上げるとまっすぐにベンを見つめ返す。


「少し時間をください。いくつか対策を思案しているところです。でも、必ず完成させます。時間が余れば、予備だって作れます!」

 その姿を見て、ベンは満足そうに首をゆっくり縦に振った。

「目がいいロスカ君にしか頼めない重要な仕事だ。頼んだよ」

「はい!」


 ベンは踵を返し、ひしめく機械の向こうへ消えていく。ロスカはこぶしを握り締め「よし!」と気合を入れた。頬はわずかに興奮で赤く染まり、瞳はキラキラと輝いている。

 ちょっと、ロスカのことを見直したかもしれない。地味だなんて思って悪かったな、と反省。ロスカはロスカなりに、自分のできることを着実にこなしているのだ。


「そうだよね、私も……!」


 そう小さくつぶやきながら自分の胸元に手を当てた。指先に触れるひんやりとした感覚。手のひらで操竜士のネームタグを包み込む。

 思いがけない訪問だったが、結果的にロスカから元気をもらうことになった。


(竜運のことで私に何ができるかは、まだ分からない。でもそれはベルの散歩を続けながら、これから探していこう!)


 うんうんと、大きくうなずいたその時。掴まっていたパイプが揺れて大きく軋み、金切り声を上げる。


「ん? 誰かそこにいるのかぁ?」

 頭上から人の声が降ってきた。

 鉄板葺の屋根を歩く足音が徐々に近づいてくる。

 私ははっと我に返った。

 工場の壁に張り付き、窓から工場を覗き込む私は、傍から見たら泥棒かスパイか。

 どちらにせよ不審者には違いない。


(やばっ‼ こんなところを見られたら、絶対に叱られる!)


 一気に体温が下がった気がした。ギシッ、ギシッと迫る足音。私は見つからないよう、できる限り体を工場の壁に密着させる。

 息を止めて気配を殺していると、足音はちょうど私の真上までやってきた。


「ふぅん……? 気のせいか?」


 地面に落ちた影が屋根から下を覗き込んでいる。

 雨よけのひさしのお陰で、私の体は相当身を乗り出さないと見えない……はずだ。


(ば、バレませんように……)


 必死に祈っていた、その時だった。

 ひときわ大きな軋みに続く、バキッ、と耳に残る嫌な音。


「え?」


 私の目の前で、落ちていく屋根の破片と……人。



 心臓が、ひときわ大きく胸を叩く。


「危ないっ!」


 私は後先考えず手を伸ばす。

 身を乗り出しただけで、バキバキとパイプが壁面から外れていく。

 私が男の腕を掴むと、男の方も空中で反射的に私の腕を掴み返した。

 摩擦力は十分。

 でも私のもう一方の手が握るパイプでは、二人分の体重は支えられない!

 浮遊感と同時に、思考が加速した。

 地面までの到達時間が数式として視界に表れる。このままだと、ふたりまとめて地面に叩きつけられる!

 私は素早く視線を這わせ、着地に最も適した地面を探し出す。


(あった、ここから大股で三歩先――石畳の途切れた、未舗装の一角! 振り子の要領で落下方向を変えてやれば……たぶん届く!)


「重っもぉぉぉぉおおおっ!」 


 男を掴む右腕が、ミシミシと音を立てた。今手を離すわけにはいかない。

 私は全身の筋肉を総動員し、気合と根性で男の荷重を受け止め、落下方向を力任せにずらしていく。


「操竜士の握力、舐めるなぁぁぁぁぁあああああ!」


 叫び声と共に腕を全力で振り切った。

 抜けた手の先で宙に浮かぶ男の体。

 なんとか狙い通りの方向へと投げ飛ばすことができた。

 が、ほっと安心したのも束の間。


(やばい、こっちも限界だ!)


 メキメキと私が掴まっているパイプが、根元から折れ始めているではないか。


「うぁぁあああああ!」


 次々にねじを吹き飛ばしながら外れる金具。私は涙目になりながら曲がったパイプに両手両足でしがみついた。

 ほどなくして、ギギギ……ギッと、パイプは最後の軋みを響かせたのち、くの字に折れ曲がった状態でその動きを止める。

 私は地面から腰の高さぐらいまで浮いた状態で、ぶらぶらとその先端にぶら下がっていた。


「な、なんとかなった……」


 地面に降りた後も、心臓がバクバクと音を立てている。あと一歩で大けがをするところだった。最後の最後で耐えてくれたパイプに感謝だ。


「あ、そうだ! だ、大丈夫ですか!」


 私は自分が投げ飛ばした男のことを思い出して振り返る。

 男は舗装されていない土の上で、自力で体を起こしている最中だった。

 肩をすりむいているが、命に別状はなさそうだ。


「び、びっくりした……。俺は助かったのか、信じられん。そうだ、君は? あそこで何していたんだ?」


 動転しながらもこちらを振り返った男の一言で、私は硬直した。


(やばっ! 言い訳考えるの、すっかり忘れてた!)


 男の両目に、空と私と折れ曲がったパイプが映る。途端に冷や汗が、全身から一気に噴き出した。

 男を助けることができたものの、不審者であることに変わりはなく、おまけに物損まで追加されてはたまらない。


「ええっと……」


 言いよどむ私を見ながら、男は手袋をはめた手で肩や背中の土を払っている。

 それを見て、閃いた。


(こ、これだ!)


 私は大げさに手を打つと、ポケットから手袋を取り出し、男の胸元に押し付ける。


「そうでしたそうでした! 私これ、届けに来たんです! グレイドさんがこの青屋根工場の工場長に借りてた手袋です! ちょうど渡してくれそうな人を探していたんです。あ! ちょうどいいところに人が! ではこれ、渡してくださいね、じゃあこれで!」


 目をパチパチさせている男を置き去りに、私は風のようにその場を後にした。


「お、おいちょっと! おーい!」


 呼び止められても、決して振り向いちゃダメだ。


(工場の修理費用、お粥屋の給料じゃ絶対弁償できないよーっ!)


 私は全速力で工場区を走り抜け、呑気に今日の散歩はまだかな、と首を長くしているベルのもとへと向かったのだった。

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