ドロシーとヴラド


 夜が濃くなりました。お空にのぼった赤い月に陰が差しています。曇り始めたのでしょうか? いいえ、霧がかかったのです。

「忘れていたよ」

 どこかから、あるいはそこかしこから、声が聞こえます。夜がおしゃべりしているみたいです。

「どのような端役はやくであろうと、けっして『童話の世界きさまら』をあなどってはいけないと」

 キキキキキキキキ。甲高い声でコウモリが鳴きました。それはもう、そこかしこで。

 夜の中の、そのぜんぶの場所で。

「それではこれより」

 コウモリたちが飛び交います。ちいさなコウモリたちが集まって、大きな翼みたいに広がります。お空を包み込むほどの大きな翼です。

「本当の夜を、はじめよう」

 翼はバラバラになって、霧みたいに、見えるんだか見えないんだかわからないものになりました。そのぜんぶが意思を持つみたいにドロシーをねらいます。


        *


「わっ……」

 百や千ものコウモリたちがいっせいにドロシーをおそいました。嚙みついてくる者もいますが、その多くはただぶつかってくるだけだったり、キーキーと耳障りな声で鳴きわめくだけの者たちです。

「いたいいたい……。うるさいうるさいっ! もうっ、やめてよ! わたしは」

 コウモリたちはずっとずっとドロシーの邪魔をしてきます。ですからドロシーはまわりがうまく見えません。それでもコウモリたちのすきまに、瞬間だけ大きくて鋭い爪が見えました。

 だからドロシーは銀の靴のかかとを三回あわせます。

「ひっ……!」

 コウモリたちのずっと上へ飛んだのです。そこから見下ろした世界はとんでもないことになっていました。

 百や千、いいえ、一万を越えるくらいのコウモリたちがうじゃうじゃとうごめいているのです。そのコウモリたちの半分くらいがいま、切り裂かれました。オズが切り裂かれたみたいにあっけなく、そこに命なんて最初からなかったみたいに。だからドロシーはもういちどオズが切り裂かれたことを思い出して奮い立ちました。

 コウモリたちを切り裂いた大きな大きな爪は、すぐに霧になって消えてしまいます。ヴラドの姿も見えません。

 ですけど、生き残ったコウモリたちが、切り裂かれたコウモリたちをくわえてどこかへ持っていきます。それはお空へ瞬間移動したドロシーよりももっと上、真っ赤なお月さまに近い、雲みたいに大きな霧の集まりがあるところへ向かっているみたいでした。

 コウモリたちが運んでいくのは死んでしまった仲間たちだけではありません。なんとこれまでヴラドが奪ってきたアリスのお国の住人たち、動物たちやトランプ兵の死骸まで運ばれていくのです。

 赤く染まったなにもかもが、お空の霧雲きりぐもにのぼっていきます。それは、天国に還るのとはまったく逆で、閻魔大王さまのところにいけにえが運ばれるかのようにおぞましい光景でした。

 バキバキ、と。ぐちゃぐちゃ、と。死んでもなお血でいっぱいの『生きていた者』がもういちど死んでいくような音が響きます。そのたびにお空から、あの赤紫の霧雲から、真っ赤な雨が涙のようにぼろぼろと降ってきます。

「あ……」

 お空を見上げたドロシーのお口に、その雨がひとしずく、落ちてきました。ぞっとするようなざらざらした舌触りと鉄みたいな味が、ドロシーの背中を冷たくさせます。

「だめええええぇぇぇぇ!!」

 命の味を噛み締めて、ドロシーはもっと高いところまで飛びました。


        *


 きっとヴラドは霧雲の中にいるのです。いいえ、もしかしたらその霧雲こそがヴラドそのものなのかもしれません。ドロシーもそのことには気づいていて、だからまっすぐに霧雲の中へ瞬間移動しました。

 ですけど、やっぱりヴラドの姿は見えません。とはいえ、赤紫色をした霧雲の中は夜の闇もあいまってぜんぜんまわりが見えませんでしたから、どちらにしてもヴラドを探すのはむずかしかったでしょうけれど。

「想定通りだ」

 しかし、そもそも探すまでもなかったのかもしれません。ヴラドの声がそこかしこから聞こえたからです。

「『童話の世界おまえたち』はとうぜん」

 おしゃべりのとちゅうで急にドロシーは背中を引っかかれました。そんなに深く傷つけられたわけじゃないですけど、背中は前にも攻撃されているのでドロシーは痛そうにお声をあげました。どうやらヴラドが爪で攻撃してきたみたいです。(やっぱり霧雲の中の視界が悪くてどこから攻撃されたのかは見えませんでした)

「悪事を許さない」

 言葉とともにもういちどヴラドの爪がドロシーを攻撃します。こんどは右手を攻撃されたのですこしだけ爪の先っぽが見えたような気がしました。ですけどその爪はドロシーを引っかいたあと、まわりの霧雲と同じようになってしまって消えてなくなりました。

 こうなるとドロシーにもなんとなくなにかがわかった気がしました。やっぱりこの霧雲がヴラドそのもので、攻撃するときだけ肉体を取り戻して、攻撃が終わったらまたすぐに霧になってしまうということみたいです。

 ふだんが霧なのですから、もちろんドロシーのほうから攻撃なんてできません。ためしにえいえいっと霧雲を叩いてみますが、なににも触れた感じがありませんでした。そんなドロシーを笑いながらまたヴラドが爪で攻撃してきます。

 このままじゃそのうち身体中を切り裂かれて負けてしまいます。とにかくいちど霧雲から出たほうがいいのかもしれません。というよりそもそもドロシーにはお空を飛ぶ力なんかなくて、銀の靴の力で瞬間移動してきただけですから、ほうっておけばだんだん地面に落ちていって霧雲から出られるのですけど、そんな時間もなさそうです。瞬間移動を使っていますぐに逃げなきゃ間に合いません。

「もちろん貴様は、もう逃がさない」

 銀の靴を使おうとしてかかとをあわせたドロシーはぐちゃりとした感触にぞっとしました。見るまでもありません。かかとをあわせて逃げようとしたドロシーの邪魔をするためにコウモリが一羽、かかととかかとのあいだにわざと潰されに飛んできたのです。ドロシーも力いっぱいかかとをあわせたものですから、そのコウモリは死んでしまいました。

 コウモリたちは敵です。なんども追いかけられて、噛みつかれて、邪魔されました。ですけどドロシーは自分のせいでコウモリが死んでしまって悲しい気持ちになってしまいました。コウモリだって生きているのです。それにコウモリたちはヴラドに操られているだけのような気もしますし、だったらコウモリが悪いわけじゃないはずです。

 ドロシーはひるんで動きを止めてしまいました。そのドロシーを、またヴラドの爪が襲います。こんどは下から上へはじき飛ばすように攻撃してきて、ドロシーが地面に落ちていくのを妨害するような攻撃でした。

 痛い。でもそんなことよりドロシーは、ヴラドがやったことに怒りを覚えたのです。

「お友達を、なんだと思ってるの!?」

 ドロシーはオズのことを思い出しながら叫びます。オズが切り裂かれて悲しい悲しい思いを味わいました。まるで自分の心臓が切り裂かれたみたいにうまく呼吸ができなくなりました。だからドロシーはオズがお友達だったとわかったのです。いつもそばでドロシーをはげまして、助けてくれて。だいたいは悪口を言ってばかりで小うるさかったのですけど、それだってドロシーを思って言ってくれていたことだって、いまならわかりました。

 そんなオズがお友達だったと、ドロシーは気づけたのです。たいせつなたいせつなお友達だって思えたのです。

 ヴラドが指示したにしても、コウモリたちがヴラドのためにやってくれたことだったにしても、ヴラドとコウモリにだって絆があるはずでした。彼らはお友達のはずでした。それなのにヴラドはコウモリを死なせてまでドロシーの邪魔をするのに使って、それに反省したようすも、悲しんでいるようすもありません。

「私の願いを叶えるための、ただの道具だ」

 ヴラドは言いました。ドロシーは怒りで自分のお顔が強くゆがむのを感じました。

「わかった。もういい」

 静かに静かに、ドロシーは言います。そうして息をひとつ吐きました。その息が震えていたのは、やっぱり怖かったからでしょうか。それとも、ほんとうのほんとうに、すっごく怒っていたからでしょうか。


 息を吐く瞬間のドロシーは、また一瞬だけ隙ができたようにヴラドからは見えました。だからこれまで通りのやりかたで攻撃します。こんどは足をねらいましょう。コウモリたちで邪魔するのも限界があります。だったらいまのうちに足を使えなくしてしまえば、ドロシーは瞬間移動ができなくなると思ったからです。

 霧雲を、ほんのすこしだけ肉体にもどします。ちいさな手と、鋭い爪を。それをドロシーが気づかないだろう角度からこっそりふるうのです。


「わたしはあなたを」

 ドロシーは足を動かしました。それは銀の靴のかかとをあわせる動きとは違います。空中ではありますが、まるで地面に地団駄を踏むみたいな動きでした。

「ゆるさない」

 見えていたのでしょうか。感じていたのでしょうか。ドロシーはヴラドの攻撃に気づいていたみたいに、ふりおろした足でヴラドの肉体になった手を踏みつけたのでした。



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