交渉決裂
サナエが恐るべき聴覚で聞き取った場所に向かう。
狩人の流儀として、あらゆる卑怯な手を使い、相手を陥れる。
これを辞さない事を念頭に入れ、オレは懐に催涙スプレーを忍ばせている。
しかめっ面でサナエがナビゲートした先に向かい、オレは奴が隠れている場所に辿り着いた。
ゴン、ゴン。
強めにノックをして、ありったけドスの利いた声で語り掛ける。
「……いるんだろ」
「います」
すぐに返答があった。
青色の扉一枚を隔て、オレは奴との対話を試みた。
争いになれば、負ける可能性が大だ。
狩人たるもの公安顔負けの冷静さで、対応すべし。
扉の奥にいるクソッタレに
「なぜ、ここにいる」
「それは……」
「あのな。オレはお前みたいな奴といちいち交渉するのが仕事なんだ。場合によっては、荒事だって行う。でも、それはスマートじゃない。分かるな?」
奴は苦しげに呻いていた。
オレがいる場所は、狭いところだ。
争いになれば、サナエを巻き込むため、彼女は離れさせている。
細い一文字の通路。
端っこには、出入り口があり、サナエは控えめに顔だけを覗かせて様子を窺っていた。
オレは手で払う仕草をして、再び問いかけた。
「……はぁ……はぁ」
「どうした。息が荒いぜ」
「頼むから、……出て行ってくれ」
「断ると言ったら?」
「出て行けと言っているんだ! 聞こえないのか!」
奴の怒鳴り声が辺りに響いた。
オレは口で息を吸うようにして、落ち着いた声で話しかける。
「賢明な判断じゃないな」
「賢明だと?」
「ああ。このままだと人がきて、パニックが起きる。人目を忍んで犯行に及んだという事は、見られちゃマズいんだろう?」
耳を澄ませると、歯軋りの音がした。
奴はしつこい問いかけに苛立っている様子だ。
だが、オレとしても退くわけにはいかない。
地域住民の命が懸かっているんだ。
「じゃあ、言わせてもらうが――」
奴は、この状況で反論した。
「今、トイレ中なんだよ!」
放屁の音が響く。
その度に奴は苦しそうに呻いていた。
何を隠そう、オレはトイレの個室のドア越しに話しかけている。
奴からすれば、袋のネズミだ。
「人がいると集中できないんだ」
「もう一度聞くぞ。どうして、ここにいる? お前、店が閉まった後に食い物を荒らすつもりじゃないだろうな」
「う、ぐっ。……はぁ、んなこと……ぐっ」
サナエに目を向ける。
そいつだよ、と言わんばかりに指を差す。
こいつの言うことは信じてやりたい。
今まで、誰からも信じられないで生きてきたはずだ。
だから、4年前に路地裏で倒れる羽目になったのだ。
「証拠は挙がってるんだぜ。さっさと出てこい!」
「む、りだよ」
「分からない奴だな。お前は追い詰められてるんだ。交渉決裂した途端、オレは上からホースで水を撒く」
「なっ――」
「考えてみろよ。お前、東京から移ってきたわけじゃないだろ。ん? 東北の冬の厳しさを知ってるはずだ。水を浴びれば地獄。寒いんじゃなくて、痛くて熱い感覚がお前を襲うんだぜ?」
我ながら、スマートに脅しを混ぜて交渉した。
「はぁ、はぁ、……だから」
ぶびっ。
奇妙な音が炸裂した。
何か取り出したのかもしれない。
オレは懐から催涙スプレーを取り出す。
「今は――」
ぶぅ、む。
「無理だ、ってぇ」
ぶみぃ。
「くはっ、……うぅ」
様子がおかしい。
耳を澄ませると、奴は息が細くなっていた。
まさか、自白を恐れて毒でも飲んだか。
今までそんな奴は一人もいなかった。
だが、あり得ない事ではない。
おまけに異臭までする。
これは記憶に新しいが、神奈川では異臭騒ぎがあったらしい。
専門知識を有する者から見て、あれは硫黄の臭いかもしれないと説が浮上していた。
つまり、硫黄という事は、火薬の可能性がある。
「う、ヴヴヴヴヴ……っ」
「ふん。ようやく正体を現したな」
犬だ。
犬の唸り声が聞こえる。
その時点で、オレはすぐに行動に出た。
掃除用具入れを探すと、ホースはなかったのでバケツを代用。
すぐに洗面所に移り、蛇口をひねった。
「ヴ、ぁ、なぁ、やめて、くれぇ!」
「お前な。狩人をバカにしすぎだ」
アメリカや他の国と違って、こっちは銃社会じゃない。
だから、バンバン撃つ真似はできないんだ。
代わりと言ってはなんだが、オレ達には知恵がある。
いつだって、日本の連中は知恵で生きてきたんだ。
バケツたっぷりに水を入れると、すぐに隣の個室に移った。
「なあ、やめろって! おい!」
「グラッチェ」
意味は分からないが、外国の言葉で別れの挨拶を意味する言葉だった気がする。語感がいいので、オレは捨て台詞として吐いてやり、バケツを持ち上げた。
バっちゃ、ばちゃばちゃっ。
個室の下に空いた隙間からは、大量の水が溢れてきた。
「ほああっ⁉」
「悪いな。治安を守るためだ」
「おま、正気かよ!」
「すぐに出て来いと言ったよな。オレは平和的に解決を望んだはずだぜ」
さて。
ここからは、身を隠さないといけない。
逆上した奴は、すぐにオレへ襲い掛かるはずだ。
便座から下りたオレは、素早くトイレを出て、サナエの手を引いた。
途中で店員が何か様子を窺ってきたが、「問題ない」とクールに返しておく。
あとは、退店だ。
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