第四集

 寝たふりをして傔従くんが去ったのを見計らい、俺はベッドに持ち込んだ本を開いた。室内は薄暗いのに、しっかりと読める。普段なら老眼で読めないのに。

 やっぱり俺は、唐で壱岐真仁くん十六歳になっているんだ。

 ということは、壱岐くんは現代世界で四十過ぎのおっさんになっているわけで――。


 俺は旅行でここに来たから、知り合いがいない。スマホなんて彼には意味不明だろう。金だってカードを使うつもりだったから、殆ど両替していない。僅かながら知識もあり、壱岐くんの人徳で助けてくれる人もいる俺に比べ、彼の状況は、余りに過酷。

 俺だってマズイ。期日までに帰国しないと、不法滞在に――。


 いや。

 そうじゃない。


 俺は手元の本に目を落とした。随分くたびれている。傔従くんが言うように、彼はものすごく勉強していたんだろう。

 俺が捕まろうと何だろうと、大望を抱いて海を渡った若者の前途を奪ってはいけない。


 何としてでも、元に戻らないと。


 こういう展開って、同じ状況を起こせば戻れるってのが定石だよな。つまり、同じ場所に行って、また跳ね飛ばされて屋台に突っ込めばいいのか。

 しかも同じ状況というならば、壱岐くんも同じことをしてくれないといけない。


 思わず頭を抱えた。恐ろしい確率だ。そもそも、これが本当に正解なのか?

 とはいえ、他の手段が浮かばない以上、やってみるしかない。

 


 何か音がした気がして、目が覚めた。

 横になって本を見ていた――はずが、いつしか眠ってしまったらしい。辺りはすっかり暗くなっていた。

 再びノック音。俺はベッドから下りて、扉を開けた。


 許宇様だった。

「体調はどうだ? 問題ないなら少し歩こう」


 頷くと、許宇様が右手にかけてきた色の濃い一枚を、俺の方にかけてくれた。外衣のようだ。俺は袖を通しながら、右手に歩いていった許宇様を追った。

 燭台の火がぼんやりと映し出す長い廊下の途中、右に曲がったところに階段があった。下りていくと、その先で扉が開かれていた。両脇に篝火が焚かれていて、兵まで立っている。許宇様は兵と言葉を交わし、外に出た。焚火の明かりで不穏に輝く槍先に恐れおののきつつ、そのあとを追う。

 空には皓皓と照る丸い月。目の前には青白く色づいた砂地が広がっていた。

 左右、背後には、傔従くんの言葉通り、似たような建物がずらりと並んでいる。

「私たちは、あそこでよく話した」

 許宇様が指さしたのは、今出てきたばかりの建物の端に植えられた一本の松の木だった。

 そこに向かいながら、彼は話してくれた。

 ひと月前、日本の使節団がここに入った。夜、様子見に立ち寄ると、通常閉められているはずの廊下の窓が開いていた。二階に上がってみると、対面の一室の扉が開いていた。壱岐くんが戸口に座り、月明りで本を読んでいたのだと。

 一年前、壱岐くんは急遽遣唐使メンバーとなり、許宇様は来訪予定の日本使節団の接待を命じられ、同時期に異国語の勉強を始めたという共通項もあって意気投合、「お互い、言葉を教え合った」と。


 そんな仲だったのか……。何だか申し訳ない気持ちになってしまう。

 帰国日まで、などと言わず、一日だって早く戻らないと――。


 ガチャン! 


 突如、静謐な夜が破られた。急に冷たくなった足元を見たら、粉々になった陶器と、花が数本――花瓶だ。二階を見上げると、閉まっていたはずの窓が、一つだけ開いている。

「真仁、大丈夫か!」

 肩を引き寄せられ、目を向けたら、許宇様が怖い顔で俺を見下ろしている。余りの気迫に何度か頷くと、彼は大きく息を吐いた。そして言った。「おまえに助けられた」と。

 ぼんやりしていて俺の歩みが遅くなった。そこで隣を歩いていた許宇様がうっかり俺の服の裾を踏み、よろめいた俺が許宇様の袖を引っ張ってしまい――その鼻先に、花瓶は落ちてきた。

 許宇様は大きく息を吐いた。 

「あの日、いきなり馬が暴れだした時、跳ねた石があたって興奮したのだろうと皆は言ったが、他に馬車や馬はおらず、跳ねる理由がないと思っていた。やはり誰かが石を投げたんだ。間違いなく、俺を狙っている」そう許宇様は言ったけれども。


 違う。

 狙われているとしたらきっと――。

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