第三集
ノックの音。
見れば、部屋の入り口に、一人の男が立っていた。
艶やかな青い丸襟の長い衣にベルト、ブーツ、頭上の髷は布ではなく冠で覆われている。細身の体は背筋正しく、尖った顎に切れ上がった目といい、「切れ者」のオーラが溢れかえった男だった。
『失礼』冷えた声は、中国語だった。もしかして
「掌客殿」
大伴くんが立ち上がった。こちらに近づいてきた男は大伴くんに向き合うと、
「
日本語だ、しかも随分と上手いな。思わず彼を見上げると、チラッと視線を投げてきた。一瞬、口元が上がったように見えたのは気のせいか?
大伴くんは小さく息を吐くと、
『ご厚意に感謝します。では彼をよろしくお願いします』
滑らかな中国語でそう言い、滑らかに礼を執り、部屋を出ていった。
大伴くんが去ったところで、掌客殿がくるりと振り返る。そして、
「私の名前、分かりますか?」訊いてきた。
「……掌客、殿?」おずおずと答えると、彼は天を仰ぎ、大きくため息を吐く。戸惑う俺をよそに、
「医者を連れて来る」
ビックリするほど滑らかな日本語でそう言うと、彼は部屋を出ていった。
その後、掌客殿が医者とともに戻ってきた。とはいえ寝ていた間に外傷は治療がされていたし、三日たっても異変がないのであれば、注意は必要だけれど、もう普通に生活してよいとのことだった。
普通の生活? なら俺も学校に行くのかな、やっぱり。
医者を送りにいった掌客殿は、その後、部屋の出入りを繰り返し、様々なものを持ち込んだ。俺は言われるがまま口を漱ぎ、顔を洗い、身体を拭う。用意された衣装に着替えている間、彼は寝具の交換を始めた。
その後、文机の上に用意された粥をすすっていると、傍らに、どす黒い液体が満たされた小どんぶりと、半透明の角砂糖みたいなのが三個乗せられた小皿を置かれる。
「薬は苦いから、甘いもの要る」そう言って、彼は薄く微笑んだ。
表情がほとんど動かない、いかにも切れ者な彼がこんな表情を見せることにも驚いたけれど、それより何より。
怪我人の身の回りの世話なんて、役人自らがやることか? しかもこんなに手厚く。
困惑する俺の目の前で、掌客殿は空いた食器類を持参した籠に手早く詰め込んでいく。
「少し休め、後でまた来る」そう言って、彼は部屋を出ていった。
一人残された俺は、再び文机に座り直した。
傍らの小テーブルには竹の巻物がいくつか。この時代、紙は貴重だったっていうもんな。
文机の傍らには硯と筆、それに小刀が置かれていた。竹簡は削って修正するという話だったから、多分そのためのものだろう。
そして机のど真ん中には、一冊の紙の本。
中を開く。あたりまえだが漢字ばかり。何度も戻って読み返して――これは辞典らしきものではないか――そう思ったとき、ぎいっと背後の扉が開いた。
「壱岐様、また勉強ですか。駄目ですよ、こんなときまで」
大伴くんの傔従だった。
「今はしっかり休まないと」さあさあと促され、俺は渋々ベッドに戻る。袖の下に本ををこそっと隠し持ちながら。
「何か必要なものはありますか?」
傔従くんがそう言ってくれたので、お言葉に甘えて俺はトイレに連れて行ってもらうことにした。
扉を開けるとそこは廊下で、正面の壁には窓があった。左右には同じ扉がずらっと並んでいて、どの扉の前にも窓があり、窓と窓の間には、据付の燭台があった。
左手歩いて行った彼の後についていき、いろんな話を聞いた。
敷地内には同じような建物が他にもあり、各国からの使節団が滞在しているという。最大収容数は千人!
その、各国からの使節団の接待係が掌客。鴻臚寺の三大部署の一つ典客署に所属しており、その数は十余人。それぞれ担当国が割り振られ、帰国までその世話をするのだという。
日本の担当者である掌客は、「
「掌客は、いわば接待の責任者で、実際は雑用担当者が世話してくれます――あ、あそこです」
俺は傔従が示した方へ、一人足早に向かいながら、俺は思った。
やっぱりそうだよな、責任者自らあそこまでやるなんて、ちょっと変だ。
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