第3話 決戦

 救いの手は味雲の心に光を響かせた。馴染んで優しい日差しのように射し込んで、どこまでも穏やかで美しくあり続けた。ごくごく普通の光景がどこまでも愛おしい。

 学校という温もり溢れたうつつの夢、青春の跡地はキラキラと輝き続けていた。

 目の前に立つあの頃の少女は今ではこの場所が似合わない程に遠ざかっていた。そう、大学生活を、人生の階段を確実でどこまでも普通な足取りで歩み続けて次の段階へ、就職活動へと向けた足をも何事もなく進めて、やがては職場という新しい環境に身を置いて、きっとこの辺り。働き始めて更にそのまま突き進もうとしていたその足を止めて今この場所に味雲と共にいた。

「味雲と一緒に大学生活、送りたかった」

 それは叶わない話だった。

 シングルマザーの身では通わせることも容易ではないだろう。奨学金制度などという言わばローンのようなもの、母にそう教えてもらった途端に引き返した身。

「俺がもっと自分に重荷を背負わせることが出来たら行けたかもな」

それよりも味雲の中ではここで過ごした時間によって失ったものがあまりにも大きく感じられた。息苦しさは止まる気配もなかった。

「霧葉ともっと一緒に居たかった、幻なんかじゃなくて、正真正銘ホントウの人生の中でふたり一緒に」

 失われたのは恐らく多くはないだろう。天音と晴香が出会うのは味雲と霧葉が付き合い始めて四年後、そこから驚くべき早さで愉快な日々を過ごしていたはず。


 どこで平穏が侵される出来事が起きたものだろう。


 辺りを見回して、これから進むべき場所を定めようとするものの、先ほどまでの夢見心地から抜け出せずに浮ついた思考は答えを出すことなくただ彷徨い続けていた。

「これからどこに行くか、味雲の家でしょ、彼氏の家に上がり込み」

「アホみたいな言い方しないでくれ」

 霧葉の中ではきっとそれなりに真面目なのだろう。言い回しの中に真面目な感情が見当たらなかったところで正しい答えをしっかりと見い出すことが出来ているのだから。

「まずはここのドアを開きます」

「ゴメン、俺が悪かったから。もう大丈夫だから教室の出方から教えるのやめて」

 少々揶揄われているだろうか。味雲には霧葉の本音がいまいち見えてこなかった。というよりは敢えて見せない方向で進んでいるようにすら感じられた。

「私のこと分からないって顔してるね」

「お見通しか」

 どうにも感情は顔に出てしまうものらしい、隠しおおせたつもりでいても時として雰囲気として出て来ることさえあるのだそう。

「味雲の前で病んでる姿あんまり見せたくなかったからね、その名残り」

 変わってしまった彼女、変わる前の姿は時たま見せていた弱みだろう。

「って言うのは冗談、本気でもあるかしら」

「どっちだよ」

 ちらちらと辺りを見回して死者のような心地を顔に貼り付けた通行人に対して苦い顔を浮かべながら通って行く。

「他の人には本音なんか見せるかって感じで反発しながら隠してたけど味雲には明るい私を見て欲しかったから」

「そう……なのか」

 言葉を詰まらせつつも味雲の中に宿る感情が手を振り踊る姿を熱という形で自覚して、霧葉の目を見つめていた。

「どっちも本性だよ。大好きな人と笑って過ごしたいじゃない。埃っぽいの大嫌い、埃叩きでパンパンパン」

「楽しい頭だな」

 きっとこれからも考え方は変わらない、そう願い続けて生きていく。ただ味雲は知っていた。社会に出てからの苦しみを。もしかするとひとつのきっかけが、ひとしずくの出来事が積もって洪水となって霧葉の心を削る荒々しい波となるかも知れない。

「退魔師一本で生きようとする方が愉快ね、味雲のお姉さん」

「あの職業でよく生きてけるよなって思うよ」

 いったいひとつの依頼でどれだけの金額を要求していたのだろう、そこまで考えて思考の向きを転換した。

 あまり取り過ぎては印象が悪くなって仕事など手元に残らなくなるだろう。

 如何に怪しい職業とは言えども他にもいないことはないはず。きっとウェブサイトや地域の怪しい情報誌などでも口コミが蔓延っているはず。ならばきっと真面目にやっていることだろう。

 かつては毎日通り抜けていた道に久々に踏み入る感覚は懐かしさと共にかつてとは異なる空気感を運んでいた。もしかするとあの頃感じられなかっただけだろうか。

 分からない、しかし今は見えているその雰囲気に心を打って歩き続ける。

 踏み込む足が踏む地面はあの頃よりも汚く感じられた。確かにあの頃と変わりない、味雲の高校時代のものと同じであるにもかかわらず。

 やがてアスファルトの固い感触を踏み始めた。ここまで来れば今でもおなじみの地。そのまま家へと向かって歩みを進め続ける。苔の生えた壁はいつまでも苔を蓄え続けていて、路側帯を示す白線は焼けてすこしだけ褪せていた。

「もう少しね」

「ああ、覚悟は出来てるか」

「元の場所にみんなで帰りたくてウズウズしてるくらい」

 心の準備は万全万端、世界を映す目はその色で、世界は霧葉の覚悟に揺らめいていた。

 覚悟の向かう先はすぐさまそこに、更に時を微々たる埃として積もらせて、そのドアを開いて中へと入ろうと足を上げたその時のことだった。

 視界に飛び込んで来た光景に味雲は思わず目を見開いてしまっていた、動きを止めずにはいられなかった。

「これ……どうなってんだよ」

 味雲に倣うように霧葉もまた、ドアを覗き込んでは軽い笑い声を零して味雲の身体に右手を回し、これ以上進むことを許さなかった。

「彼女のセカイ、あの女はこの家の先を失ってでもいるのかしら、実家なのにね」

 もしかするとあの魔女が結界と呼んでいたモノを張るために必要なことだったのかも知れない。とても大切なはずの場所は結界の世界には含まれていなかった。

「天音の居場所を訊こうと思ったけど、こんなの誰に訊けばって話よ」

 霧葉の言葉の意味を理解したのは中を覗き込む目が慣れた瞬間のことだった。幻に囚われていた味雲がこの世界の中で目を覚まし、続けてこの世界までもが天音の創り上げた幻なのだと理解した。

「アレが番人とでもいうのかよ」

 味雲は目を見開いた。そこに佇むモノたち、穴の向こうで蠢くナニモノかの正体を知ってただひたすら心を震わせるばかり。

 ドアの向こうには幾つもの魑魅魍魎が、物の怪の類いが遊泳するように飛び交い不愉快な声で結界の世界そのものを嘲笑っていた。外から内を見つめて嗤うその態度がどこまでも恐ろしく感じられた。

「退魔師としても相手にしたくないんじゃないかしら、アレ、そこそこ歴史を積んだモノたちだもの」

 今どきそこらを歩いて目にするソレらとは明らかな別物、恐ろしい程に生々しく奇妙な姿を持っていた。詳細など見たくもない、ただそう思い続けるふたりの姿がそこには在った。

「恐怖……はいけないんだったよな」

「そう、イケナイ。その感情は怪異をどこまでも強く仕立て上げてしまうもの。恐怖の感情が刀鍛冶のように思える」

 ドアを閉じ、味雲の顔を甘い目で見つめつつ真剣な言葉をいつも以上に抑えたがために枯れた音色が色濃くなった声で届けた。

「ところで他に手がかり、分からないかな」

 味雲は記憶を巡らせる。かつてこの世界で巡ったあの時を、天音の理想に従って進められていた時間の歩み、現実とは大きくズレて行った運命の歩みを。

「ああ、それなら知り合いがいるはず、和菓子屋の方に」

 和菓子屋かえるのて、分厚い木の看板はあまりにも遡ることの出来る時代が深すぎるのか反対向きに書かれていた。子どもや歴史に興味のない者が目を向ければ『てのるえか』と呼んでしまうことだろう。

 すぐにでもふたり足並み揃えて和菓子屋へと向かう。味雲は霧葉の行儀のいい歩き方に、真っ直ぐと伸びた程よく細い脚に見惚れながら歩いていた。

「どうしたのエッチ、脚ばっかり見てる変態、見つめないでよスケベ、もっといっぱい見てよエロ彼氏」

「待った、心の動きがスムーズ過ぎて読めねえよ」

 ひと纏まりの言葉の中に既に矛盾した言葉が含まれていた。本気なのかふざけているのか、流石に後者だろう。そしてこの女の本音など味雲の変態の写し鏡。

「味雲が歩く時の身体の揺れ方大好きなんだけど真似したら私胸が痛むしなあ」

「騙されないぞ、乙女っぽく言ってるけど一から十まで変態発言って分かってるからな」

 お互いさまでしかなかった。

 木々が伸ばす手や彼らの落とし物の葉っぱを目の当たりにしながら、まばらな秋の絨毯を、黄色を散らしたアスファルトを踏み続けて十数分、和菓子屋はすぐ目の前に迫っていた。

「ここ、季節おかしくないか」

「そうかしら、学校では真夏、ここで秋を同時に味わえる良い世界よ」

「それをおかしいって言ってるんだよ」

 漫才カップルが誕生し、秋の雅な雰囲気をひたすら壊し続けていた。

 和菓子屋の自動ドアは近付くと共に素直に開き、目の前にはごくごく普通にありきたりな異界が広がっていた。

 時代から切り取られたような和の香りが漂って、辺りは一面畳という床という花を咲かせるわずか一部の間取りが目に入った。

「いらっしゃいませ、そちらは茶会専用の畳スペースとなっております」

 目の前にてお辞儀をする女は目が大きくてはっきりとした光を宿していた。

「お待ちしておりました、魔を退ける力を持ったお二方様」

 どうやら彼女もまたそうしたモノが蔓延る世界を知る人物のようだと霧葉は頭の中に書き留める。

「それでは早速天音の所へと参りましょう、三人でまやかしの結界を決壊させる時」

 この美人は果たしてどれだけの時をこの場所で過ごしたのだろう、数か月にも満たない時がここでは数年にも化けてしまうということ、味雲は既に嫌だと叫びたくなる程に学んでいた。

「五人でこの場所を抜け出すの」

 霧葉は目の前の女の目を覗き込みながら訊ねる。

「あなたはどなた、私は甘土 霧葉、彼のことが世界一カッコよくて仕方ないなんてオメデタイことを本気で言っちゃう乙女よ」

 なんて斬新な自己紹介だろう、初見からして衝撃が強すぎた。味雲の顔が歪んでしまうくらいに。

「私は神在月 甘菜、十月の化身よ」

 向こうもまた、何かしらの電波を受信しているような発言をしていた。

「変なこと言うのはいいけどずっとそれで定着するかも知れないんだぞ」

「そうねえ、あなた様が自己紹介すら慣れてない無礼者だとこのわたくしの頭の中で定着したわ」

「ごめんなさい、俺の名前は雨空 味雲」

 謝りながら名乗る様はあまりにも情けなく感じられた。しかしながら既に手遅れで、そうする以外の手段などその手に持ち合わせてなどいなかった。

「よろしい」

「味雲は私の愛する人だから」

 霧葉の優しさに溢れた視線と言葉があまりにも痛かった。好きな人、付き合っている相手の顔なためか傷口に擦り込まれる痛みはゆっくりと丁寧で余計なまでに強く感じられた。

 そうしたことを経て霧葉と味雲のふたりは甘菜の進めるままに流れる話にそのままついて行っていた。

「で、天音のことね、あの子は恐らくかつて敗北を味わったあの森の中にいるわ」

 きっと晴香を、大切な彼女を失わないためなのだろう。ただひたすらそのばに留まってはふたりの命を繋いでいるのだろう。

「私たちの役目は天音と晴香の命の繋がりを切ってなおかつ晴香を生かしたままこの結界を抜け出すこと」

「条件は話せば難しく見えるけど」

 霧葉の呟きに同調し、味雲は頷いて辺りに散る言の葉を全て纏め上げた。

「つまるところ全員助かってハッピーエンドってことだろ」

 そこまで分かれば十分だろうか、甘菜はふたりを連れて和菓子屋を後にした。


 歩いて行く、進んでいく。流れる景色は常に過去のモノとなって行く。既に過去となった景色であれども振り返ればいつでも今のものに変えることは出来るだろう。容易いことだった、しかしながらそれは出来ない。目的を果たすためにはただ前へと進むしかなかった。幸い結界は丈夫で万全、天音を打ち破った妖もここまで追いついて来ることはないだろう。

 歩き続けてわずか数分、太陽の位置も動く事なく、というよりはそもそも太陽自体が動くことを拒んでいるような不思議な世界だった。そんな時の歩みを放棄した結界の中の世界、今の天音にはあまりにも似合い過ぎていた。

「そうね、何も私たちに良い事のない場所ね」

 静まり返り、人の往来はあれども不自然なまでに少ないこの場所。彼らにとっては大いに退屈だろう。

 やがて見えてきたそこに立つのはたったひとりの女。味雲は首を傾げた。

「なあ、晴香はいったい何処にいるんだ」

 言葉を受けてただ反応を返しただけだろう。天音は奇妙な笑みに顔を引き攣らせていた。

 言葉もなく、ただ下品に想える表情を見せるだけの彼女がどこまでも醜いモノに見えている。このような陰気に溢れた存在、妖気を持つモノに見えて仕方がなかった。

「御話にならないわ。口って何をする為についてるのかな」

 霧葉は短いフリルを、袖や裾、首を通す位置を分かりやすく示すためだけに付けられた飾りっ気のない飾りを震わせ、黒いワンピースをそれ以上に真っ黒でハッキリとした絹の髪と共に揺らす。

 左手にペーパーナイフを握り締めるその姿に倣って味雲もまた、右手に同じ輝きを放つペーパーナイフを構えて背中を合わせて。

 ふたりして天音をしっかりとその目に収めてお揃いの言葉を叩きつけた。

「切る、中に潜むモノを」

 そこからの天音の反応は速かった。生気を宿さないままの瞳は震えながらもふたりを見つめ続け、その目に従うように腕は振り上げられた。

 途端に現れた影。細長く伸びるそれは昼間の影らしい薄い黒をしていた。薄っぺらな身体を伸ばしては流れるように襲い来る様は最早この世界に人知れず居座り続ける妖のものと変わりがなかった。

 味雲はそれを切り裂いて、同時に走る腕の痺れに目を歪めながら霧葉に告げる。

「武器が俺に馴染み切ってないみたいだから、切り開くのは霧葉に頼む」

「安い御用だけど、安い賃金すら出ないのね」

 霧葉は駆け始めた。大きな胸が妨げになっていることは味雲にもたやすく分かってしまう程のもので、頼みごとの罪悪感に苛まれていた。

 こうして進み続ける中で容赦なく飛んで来る五つの影を味雲は迎え受けて腕を振る。銀色の輝きは陰りのひとつも見せることなくただ薄暗い影を打ち払って光をもたらす。使いこなせるかどうかなど関係なく、ただ単純に強い希望を持ったどこまでも頼れる武器だった。

 更に数を増して迫って来る影を幾度も振るって幾つも祓って、やがてもういくつかの歩数を稼げばたどり着けるといったその時、天音の生み出す影は新たなカタチを持った。

 ふたりの目の前に現れたものは小さな犬。もこもことしていて柔らかそうな身体をした薄暗い陰色わんこ。

「待った、これ祓えって言うのかよ」

 瞳をウルウルとさせて怯える犬は襲いかかってくることもなくただずっと味雲たちの方を見ていた。

「抱えてみる?」

 訊ねる霧葉の目は本気なのか冗談なのか付かないようなもので、いつもの鮮明でキラキラ活き活きとした気配が見られなかった。

「抱えて、大丈夫だろうか」

 一応は影、天音が生み出した自身を守るための存在。あの凶暴さを一切抱えないこの表情に甘えるように子犬を抱えても良いものだろうか。

 味雲は悩む、しかし、通り抜けようにも子犬は必死に小さくもこもことした手を動かしてはふたりの行く先を塞ぎ続けていた。

「これは……この子はもしかして」

 無害なのかも知れない。影の中に潜む優しきものの残滓なのかも知れない。希望を抱きつつ味雲はその手を伸ばし、子犬を掬い上げ、撫で始める。

「ほら、いい子だな」

 小さな頭を撫でる手の優しさは声にまで滲み出ていた。そうして戦いというぶつかり合いの中に持ち込んではならないはずの優しさは陽の気と成って天音が掲げていた魔への対抗法が完成されようとしていたその時のことだった。

「危ない」

 言葉を挟み、ヒトと異形の間に流れているように見えた明るい関係に緊張感をいつも通りの枯れ声で差し込んで霧葉はペーパーナイフを振る。

 味雲はハッとした。ペーパーナイフが迫るまでの一瞬の中に子犬の行動が目に見えた、長く垂れた耳に隠された表情、その中で口を開いて味雲を噛み締めようと謀っていた。ただ雰囲気と動きだけで伝わって来る程に強くて分かりやすい敵意は霧葉の輝きが届くことですぐさま鎮められて闇という見知らぬ水底へと沈んで行った。

「油断は禁物、好きな鍋はもつなのよ」

 霧葉が時折挟み込む冗談が味雲の心に覆い被さろうとする雲をいつでも晴らしてくれる。味雲にとっては太陽の光すらも優しく砕いて輝く霧こそが晴よりも晴れ晴れとした希望の象徴だった。

 一方で天音は表情のひとつも変えることなくただそこで力なく背を丸めて猫背気味の陰気充ちる姿勢で立っているだけだった。そんな天音の目の澱みには薄暗い影が這いながら張って、まさに妖の類いが好む空気感が現れてしまっていた。

「行くよ、私は破壊者としてここに立つ」

 それぞれ衣服の出口、袖に裾に襟に目印程度の気持ちで付けられたレース地をひらひらと揺らし、一矢の光すら通さないあまりにも純粋で深くて黒い布地を風にはためかせ霧葉の動きにはためかせ、この世界を打ち壊す存在の象徴として別方向の不思議をそこに居座らせていた。

 味雲はそんな彼女と共にペーパーナイフを構える。そこまでして思い直した。すぐさまペーパーナイフをポケットに仕舞い込んで、霧葉が掲げる左手を包むように右手で白くて滑らかな手を、彼女の艶やかな手を握り、輝きの芯となっている霧葉の想いにふたつ目の想いを、救いたいという分かりやすいだけの本音を込め、言の葉を奏でる。

「姉貴、おねむの時間はおしまいだ!」

 貧しく思える程に分かりやすい心は濁り切った空気を裂いて行く。しっかりと突き進む言葉は天音をも救う煌びやかな陽気となって妖気を掻き消し始めて行った。

「頼む、起きてくれ、こんなまやかしの世界、終わりにするんだ、現実でみんな笑顔が一番だ」

 創り上げられた偽りの世界、天音の逃避の最果ての土地。そんな片隅の異界で、現実から目を背けて閉口することで紡ぎ上げられし一種の並行世界にヒビを入れる。輝きと闇の靄が混ざり合うこの世のモノとは思えない光景。そこに不穏な気持ちを見つつも更に一歩、向こう側へと踏み出すための想いを、ひとつの言葉に変えて切り込む。

「陽気を持って」

 たった一歩の踏み込みは天音の胸に刺すように挿したペーパーナイフの輝きに温もりを与えた。味雲の手から伝わる温かさは天音にどのような気持ちを与えただろうか。

 天音の胸は輝き始める。開かれるように光を広げ、やがて世界を飲み込んだ。


 眩しさはどれだけの静寂の時間を与えただろう。意識を取り戻すまでの間、凍り付いたように立っているだけだったことを思い出しつつ、味雲は辺りを見回した。

「霧葉、甘菜さん、居るなら返事を。姉貴、ここにいるのか」

 それぞれに掛ける問い、自身の思う希望を抱かせてくれる人々の姿を探すものの見当たらない。

 輝き一色にも思えたこの世界の中、輝きに透ける埃っぽい気の帯をその目に捉えた。

「こんなところにまで」

 どこまで陰気は妖の気はついて来るのだろうか、そう考えつつもその考えはすぐさま否定された。新しく目に入った光景をすぐさま受け入れ歩み寄る。

 どこまでも禍々しい気配がひとりの女を包み込んでいた。眠り心地はいかがなものだろうか。

「悪趣味なゆりかごだ」

 そこに収まる女は味雲よりも年下だろうか。後ろ髪を一本に纏める紫色のリボンが眠る女の頭に留まる蝶に見えた。

「長生きばあちゃんの……やっぱり君が孫娘」

 あの老婆が病院で語っていた優しい少女、その少女が今では高校を卒業して大学へと進み。

 何のエニシだろうか、今では死を前に眠り続けていた。

 絡み付いてほどくことすら叶わない陰の気、触れることすら許されない、そんな心情がひしひしと伝わって来る後ろ向きな揺りかごに向けてペーパーナイフの一撃を加えてみたもののびくともしない。

 陰の揺りかご、この上なく寝心地の悪そうな繭のこの上ない頑丈さを前にして味雲の表情は凍り付きつつあった。

「どうすればいいって言うんだ」

 希望は絶たれようとしていた、味雲の想いもまた天音と同じ模様に染まってしまおうとしていた。

 そんな時のこと。

 眠り続ける女、川海 晴香の手が微かに動いた。震えるように小刻みで力のない動き、それに合わせて揺れる紫色の蝶の姿をして留まっているリボン。

「そうだよな、優しいな、こんな姿でも応援してくれるなんて」

 感情の塗り替えはあまりにも単純で、味雲の意見は陰と陽をせわしなく往来していた。境界線のその上で舞いを刻み続けていた。

 そんな心境が陽気に寄ったが為のことだろうか。


 いつの間にか天音がそこに立っていた。

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