第2話 向こうで

  ――切る、中に潜むモノを


 それが霧葉との初めての会話の中で事態を動かす重要な言葉だっただろうか。


  ――アメソラの中のモノが暴れないか、経過観察するから


 そう語って握り締めた味雲の手を放すことを許さない。


  ――なんで恋人つなぎなんだよ


 始まりの時点で既に味雲のことでも意識していたのだろうか。



 日付けは変わり、霧葉が公園で除霊をしている現場を見かけては不審者を見つめる目そのもので流しては約束を破ってまで進もうとしたそんな時のことだった。


 味雲は地面に落ちていた懐かしくあれども実際に手にしたことのない、そんな玩具を見つけた


  ――これは、鳥の水笛か


 水の入ったピンクに染め上げられたガラス製の笛。子どもが噴いては笑顔を浮かべるその姿を思い浮かべながらそれを拾う。


 本人にはどうして手にしてしまったのか分からない、既に笛に宿るナニモノかに魅入られてしまっていたのか、或いは懐かしさとあどけない霊という未知の存在に魅入ってしまっていたのか。


  ――お兄さん、ありがとう。その、一緒に来て、道に迷ったの


 どうしてこの変哲もない道に迷ってしまったのだろう。分からない、それでも疑問は全て溶けてなくなって、自然と手を引いているような手を引かれているような、そんな曖昧な感覚で進み始めた。


  ――その、アイスが食べたくてでもお金が無くて


 言われるがままにコンビニの中へと身を乗り込ませる味雲、呆れながらも抵抗が出来ないその姿はまさに取り憑かれた人物そのもののよう。


  ――それだけじゃなくて誰に話しかけても見つけてもらえないの


 長い孤独の果てにようやく自分を見てくれる人間を見つけて嬉しかったのだろうか。幼い子は、味雲のことをすっかり気に入って甘えてしまっていた。


  ――嬉しいよ、見つけてくれて


 長い間ひとりぼっち、数えても数えきれないほどの長い時を経て、数えることをやめてしまう程の果てしない時間を誰と分かち合うこともなくただただ深い寂しさに埋もれてしまいそうで。


 そんな幼い子どもを引き連れて、どのあたりに家があるのか訊ねつつ推測を重ねて家へと向かう。きっと長い年月がその地の姿を大きく変えてしまったのだろう。味雲が知るだけでも辺りの田畑が殆ど家という姿に成り代わってしまっていた。


 そうして歩き続けることどれだけが経過しただろう。たどり着いたそこに待っていたのは悲しみに目を歪めた美人、霧葉の姿だった。


  ――アメソラが連れていたのね


 霧葉もまた、同じ姿の幼子を連れていた。


  ――双子か!?


 味雲が連れている女の子は太陽すら霞んでしまう程の笑顔を浮かべていたにもかかわらず霧葉が引き連れる子はどこまでも変わりのない無表情、果てしない無色透明の濁りに充たされたものだった。


 幼い子はその手を伸ばし、味雲の手に収まる水笛を指した。


  ――それを返してください


 声にも抑揚が見られない、そんな声を操るのは感情が抜け去ってもなお残された本能の残滓なのだろうか。


 霧葉は腰を曲げて女の子に視線の高さを合わせながら優しい顔を浮かべて訊ねる。


  ――本当にいいのかしら。確かに感情は全てそこに置いて行ったのかもだけどそれ、交通事故の記憶の血で充たされてるわ


 味雲は手に収めていた水笛に目を向ける。いつの間の出来事だろう。果たしてそれは初めからそうだったのだろうか。


  ――水笛が


 思わずつぶやいてしまう程の衝動が走っていた。気が付けば水笛に入っていた水が紅く濁り切っていた。それは他に表現のしようもない程に分かりやすい血の色だった。


  ――いいんです、今の私は何も感じないので。何を見ても嬉しくなくて悲しさも分からない、今どうしてそれを返してなんて言ったのかも


  ――でも、これ


 味雲の凍り付いた表情を溶かしたのは霧葉の言葉だった。


  ――元々この子の記憶だしこの子が欲しいって言ってるから返してあげて。ツラいかもしれないけど大丈夫、女の子って、とても強いんだから


  ――男だってそうだろ。ああ、確かに感情がここにあるなら返してあげるべきだよな


 そうして返すことで除霊は完了したのだという。



 更に日付けは改められた。それは病院での出来事。霧葉はただずっと病院を駆け抜けて霊をひたすら祓い続けていた。


 その間に味雲が続けていたことと言えば、依頼主である年老いた女性との会話だった。


  ――綺麗な彼女さんだね、私も昔はそうなりたかったよ


  ――おばあさんはきっと綺麗でしたよ


 優しそうな顔から見て取れる、きっととても綺麗な顔をしていたのだろう、綺麗な心を持っているのだろう。


  ――私の自慢の孫娘もとってもかわいくてね


  ――そうですよね、おばあさんのお孫さんならきっととても美人でいい子でしょうね


  ――そうなの、そんな可愛い顔を悲しみに染めたくなくてねえ


 どこまでも孫娘想いの優しいおばあちゃん、そんな印象はすぐに固まって行った。


  ――私自身もあの子の中学の卒業式まで一緒に過ごしたくてね、あと一年は生きなきゃ


 紫色のリボンを優しく手で包みながら更に言葉を続ける。


  ――あの子の結婚式が楽しみでねえ、長生きしなきゃねえ


  ――それはずっと元気でいなきゃいけませんね


 期間が延び切っていた。先ほどよりも長生きしようという強い想いを感じていた。



 またしても日付けは改められる。経過していく日々、流れる時間の早さはまさに川の水の如き速さ。底から浮かび上がるように浅くなっていく過去。今という水面に追いつくための速度なのだろうか。味雲に語る男はタバコを指に挟み、煙と共に言葉を吹き出していた。


  ――霧葉のこと、大切にしてあげてくれ、あの子はな


 そこでようやく知った美人の過去の苦悩。彼女は少しばかり個性が強かった。それは本人の人柄なのか退魔師という仕事を飾り付けた環境からなのか、判断に少し困るところ。


  ――あの子は過去に自分の手首を切っていたんだ


 精神的に苦しかったのだろう、おまけに根は真面目だったのだという。彼女は自らの責任感を刻み付けるように手首に刃物を当てていたのだという。いじめにもあって悲しみに美しき眼を歪め、自身に様々なことを言い聞かせては血の感触と痛みの色で心に躾を施す。


  ――もうやっていないとは思うがそれでも心を痛めている。過去は埋まらない。そうかこれからを優しく生きさせてあげて欲しい


 味雲は実のところ、美人というものが苦手だった。霧葉の黒くてさらさらとした髪はホラー映画に出て来る女の霊を想わせる。それだけでも触れることをためらってしまう上に、美人というものに対して良い印象を抱いていない母とそんな心に教育を施された姉と自分自身の関わり。


  ――美人は楽をし過ぎてる


 本当だろうか。


  ――周りにちやほやされて色々手伝ってもらってその分私たちみたいな普通の人たちよりも優位に立って


 もしもそれが本当なら、霧葉はきっと今頃手首に刃物を当ててなどいないだろう。


  ――そこまで楽してる人は何も出来ないから、付き合うならあまりきれいでもない顔で苦労をしって思いやりの心を持ってる器用な人を選びなさい


 果たしてその印象は正しいものだろうか。味雲の中に築き上げられた印象は音を立ててその柱を崩しながら落ちて行く。


  ――霧葉は凄く悩んで来たんだ、美人だってどうだって関係ない。誰にでもひとりひとりそれなりの苦悩を背負って生きてるんだ


 完全に壊れて跡形もなくなってしまった教育。母による洗脳にも似た価値観の植え付けは、躾と称した心の支配の花は、この瞬間に枯れ果てた。


  ――分かりました。彼女を、霧葉を絶対に幸せにします


 きっとこの男は霧葉のことを見てくれる人物なら見た目が少々頼りなかったとしても、お世辞にも頭がいいとは言えない有り様でも受け入れてくれるだろう。現に霧葉のことをよろしくと言っていた、味雲に霧葉の全てを託してもいいと認めていた。


  ――味雲、行きましょ。ふたりだけの時間、ふたりだけの空間、ふたつ揃えばふたりだけの宇宙だよね


 相変わらずどこかの星からおかしな電波でも受信したような言動を重ねていた。そんな霧葉のことを、少しだけ好きになってしまっている自分が心のどこかに迷い込んでいる。そんな姿の背中程度が目に見えた、そんな気がした。


  ――何言ってるのかさっぱりだ。でも、ふたりきりは悪くないかもな


 その日の夕方、ふたりきりになった後の買い物をすべく入ったスーパーマーケットにて母にふたり仲良く歩く姿を見られてしまっていた。少し離れた地域とは言えども高校生の行動の範囲などたかが知れているのだから仕方がない。


 相変わらず同じ躾をする母に鋭い目と怒りに溺れた言葉を用いて喧嘩をしてしまった。霧葉の苦悩を知らない女の放つ言葉など、人の表面しか見えていない心から上げられる声になど、今の味雲を動かす力は持たなかった。



 それから更に日付けは進められる。すいすいと日々は進んで霧葉が味雲の家に上がり込んでしまった日のこと。料理など一切行わない母が買って来る焼き鳥などおつまみを見つめて呆れ混じり言葉を、枯れた声で想いを捧げる。


  ――料理出来ないのですか、私の彼氏のためにもお母さま自身のためにも教えます、みんな健康という教えを信仰してもらいます。身も心もずぶずぶに


 そう言って教え込んだ料理、様々な苦労の果てに今の生き様や少し乱れた姿があるのだと一挙一動が語っていた。美しさの中に刻み込まれたちょっとした生々しさに触れて味雲の母はようやく霧葉のことを認めて優しい表情と共に抱き締めたのだという。


 この出来事以来、霧葉はそれなりの頻度で味雲の家に上がり込むようになっていた。味雲は勿論のこと、味雲の母のことも好きで堪らないそうで、仲良く話すふたりの姿が見受けられていた。


  ――認められてるのかよ、早いな流石に


 味雲の中に広がる驚きと、霧葉の心によって成せる関係なのだと振り返り、霧葉の手を握りしめてはしっかりと存在を認めた味雲。それだけに留まらず姪が上がってきた時にも霧葉は自分の膝の上に座らせては思い切りかわいがるという妙な行動にも出ていた。


  ――霧葉もツラかったんだろうな


 きっと寂しさや仲間の温もりを知っているからこそ繋いだエニシを大切に磨き上げる。彼女の生き様が、人生の歩み方がこの上なく美しく見えていた。


 味雲の姉である天音だけは唯一この美人のことを認めなかったものの、そればかりは諦める他ないことなのだろう。


  ――この生活がいつまでも続けばいいな


 どうしてそう思ってしまったのだろう。いつの日かこの陽だまりに果てが訪れるような、この澄み渡る関係に影が蔓延ってしまいそうな、そんな予感を手にしてしまっていた。


 染み渡る雨雲、散らされる雨はきっとこれからの感情を先に伝えているのだろう。悲しみに沈まないで、涙はどれだけ流しても洪水にもならないし蒸発して誰にも伝わらない、味雲に最も相応しい励ましを伝えてくれる自分の心にいる心地よい何かが伝えていた。



 やがて一学期という学校におけるひとつの括りが夜闇に鎖され始める。その向こうでも大して変わりのない授業が繰り広げられるという日々が訪れる。夏休みなどと言うものは初めから在って無いようなもの。時間の中、一学期の果てという夜空の月に腰かけて妖しい笑みを浮かべる授業、課外に想いを託すなどという余計なことを企む影を睨み付けつつこれからの日々を変わらずに歩み続けることを覚悟の有無にかかわらず叩きつけられた。


 太陽から注がれる日差しは絶え間なく熱を運んで来る。光は痛みを容赦なく与えて来る。熱は肌を刺して突き抜けて世界を焼き尽くしてしまおうとする勢いを持て余していた。


  ――地獄の暑さだろ、もう少し手加減してくれ


  ――そんなあなたに世界をキンキンに冷やして差し上げましょう、キンキンキンキンキンキンキンキン


 暑さに脳でもやられてしまったものだろうか、そこに立つ女の言葉から知性など何ひとつ感じられなかった。恐らくこれまでの通り勉学どころか思考からも目を背けてきた女の持つ姿と言ったところだろう。


  ――どうしたの、セミは元気よ、味雲のエネルギーでも奪ってるのかしら


  ――そんなわけないだろ


 笑っていた。気が付けば笑顔のヒマワリを咲かせてくれるそんな存在。眩しい霧葉のことが見離せない。いつまでも見つめていたい、そう思えていた。


 そんな夏休みの放課後のこと。


 太陽は沈む気配がなく、日差しの雨が地球に叩きつける熱が頭の中に鳴り響いてうるさくて仕方がなかった。


 そんな中、霧葉がその美しい黒髪に覆われた頭を抱えて蹲り始めた。


  ――ダメ、私の中のあの過去が、これまでの歩みは……


 霧葉がかつてのことに囚われているのだということ、前に進むことが出来たように見えていてもそれは突如蘇っては本人にとって持続的に効き続ける毒となるのだということ。


  ――もう醜くなる前、これ以上はいけない……汚くなる前に、その手で


 味雲の手にはいつの間にかおもちゃの銃が、味雲の頭を駆け巡る眠れぬ悪夢の夜が握られていた。構えて引き金に指を伸ばしたその時、味雲の中で蠢く何かが叫び散らしていた。


  ――違う、これは……違う


 果たして何が違うというのだろう。どのように違うというのだろう。蠢く何か、心の中に潜む悪夢の夜とは異なる何者かを見つめ、この世界に言葉を零す。


  ――違う、この結末は、違う


 果たして何が異なるのだというのか、心の中にて蠢き続けるそれを見つめて味雲はようやく何者かの正体を知った。


 そこに伸びる腕は今にも折れてしまいそうなほどに細々としていて、それでも味雲には何者なのか分かってしまう。揺れる薄茶色の髪は波打っていてその瞳には柔らかさはあったものの、弱り果ててチカラが無いという印象が強くてその色合いに引っ張られていた。


  ――俺だ、ホントウに弱っていたのは俺自身の方だった


 気が付いてしまった。現実をその目にしてしまった。瞳が捉えてしまったそれは次第にハッキリとした形を取り、今ここに何不自由なく立ち続けている味雲と重なって。


  ――ああ、そうだよ、霧葉が初めから言ってたじゃないか


 中に在る何者か、中に潜むモノを切る、断言していたこと。味雲と共に行動を重ねていた理由。


  ――それが暴走しないか経過観察するわ


 それが真実。分かった途端にこの世界は音を立てて揺れ始めた。世界の隅からヒビが生え、隅へと向かってくもの巣を想わせる形で広がって繋がって。


 いつの間に立場が変わったのだろう。頭を抱えて蹲っているのは味雲の方で、霧葉はその手に刃物を持っていた。光を跳ね返して鋭い輝きを放つなまくらのペーパーナイフを細い指でつまむようにその手に挟んでいた。


 頭の中に聞き慣れた枯れ声が響き渡り、味雲のセカイを温もりで充たして行く。


  ――やっと見えた。中に潜むモノを切る。


 告げる彼女が掲げた光。明るい空の欠片が散り、乱反射を繰り返しながら真夏に降り注ぐ乾いた雪となりながらも霧葉がその手に保ち続ける輝きには敵わない。希望の光はいつまでも霧葉の心の中に宿り続けていた。


  ――私は、味雲といつまでも笑って過ごしていたいだけ。恋の花が枯れても愛の糸が焼き切れても、ずっとずっと自然と笑顔で隣り合うことが出来る、そんな仲になりたくてたまらないだけなの


 掲げられた光を見上げ、味雲の恐怖は、苦しみは引きずられて味雲の身体を掠れさせていった。


  ――わがままだよね、好きな人ってだけで、好かれてる人とは限らないのに


  ――大丈夫、俺だってとっくの昔に


 霧葉に心を奪われてどれだけの時が経ったのだろう。今この場で過ぎ去った日々はたかだか高校生活の一ページに過ぎない。所詮は数か月。それでもそこには数年もの厚みが重ねられ綴られていた。現実で過ごした数年など関係ない。まごうことなき人生の濃さは想いひとつで積み上げられたモノだった。


  ――初めてなの、自分の手首を切るばかりだった私が、ふたりで歩める道を切り開くなんて


 確かにあの時声にしていた言葉は輝きに満ちていた。思い出してみても、味雲の中ではどのような物語よりもこの世界の如何なる名文よりもずっとずっと大切な言葉だった。


 言葉と共に振り下ろされた輝き、紙以外のナニモノも切ることの出来ないはずのペーパーナイフは、心地よい音を立てながら空気を引き裂き、やがて味雲の中に潜んでいたあの悪夢を切り裂いた。

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