第4話 脱出

 天音はただその場でぽつりぽつりと薄暗い言葉の雨を光の空間の中に降らせる。

「みておしまいかい。そうさ、アタシは好きな人を死なせてしまう直前にいるのさ」

 それは過去の話、ある妖との戦いに敗れてしまったことが悲劇の始まりの合図。天音本人は咄嗟の構えで身を守ることが出来ただろう。しかしながら、霊を目撃する事が出来るだけに過ぎない晴香はそういうわけには行かなかった。無力どころか霊を視る力がある。その事実が却って彼女の身を大きく危険に晒してしまっていた。

 視えなければ触れることもなかった。住まう世界が半分だけ重なっていたが為に意志無き攻撃にまで触れてしまった。

「あんな曖昧な攻撃、知らなければ当たることもなかったというのにね」

 天音はそこに広がることのない空を仰ぎ見る。跪いては現状というものに突っ伏して抑え込まれていた。

「晴香はこのままだと死んでしまう。でもアタシと命繋いでなけりゃあすぐに死んでしまう。此処から出たらアタシの希望なんてモノ、永遠に過去のものになるってワケさ」

 全てを諦めている天音に向けて味雲は表情を歪めてみせる。自然と表情に合わせた声で己が選びそうな言葉をここにこぼす。その感情は天音の救いとなり得るものだろうか。少なくとも味雲の声からは救いたい、天音も晴香もどちらも共に、そんな想いが滲み出ていた。輝きの中に新しい希望として染み込んで行く。

「脱出しよう。命を繋いだままなら生きて出られるし、この結界の外では既に晴香を救う準備が出来てる」

 天音にこびりついた汚れはどこまで根深く湿り切ったものだろう。

「でも、失敗したらもう晴香の顔すら」

 開かれた口から出て来る感情は後ろ向きで味雲としては、共に長い時を過ごしてきた弟としては見ていられなかった。

「絶対に成功させる。このままじゃ晴香の話す姿も動く姿も……明るい笑顔すら見られないんだ」

 天音はハッとした。今の状態に足りないもの、明らかにそこに足りないものを味雲が言葉にしてくれた、永遠の曇り空に細い日差しを差し込み彩って希望の入り口を作ってくれたのだから。

「そう、今のアタシに足りない」

 分かり切った話だった。そこには応急処置と負の感情に覆われて眠り続ける天音のお姫さまが浮かんでいるだけの状況、百点満点ではないのだから。

「それにしたって何故にアタシの彼女を救ってくれるものかい」

 その質問に対して差し込む答えなどとうに用意されていた。用意するまでもなく、過去が語っていた。

「あのおばあさんの言う通り、とてもいい子だからな、俺も好きだよ」

 途端に吹き出すように笑いを鳴らして口元に手を当てながら言葉を返す。

「そんなこと言われたってアンタの指にこの子との契りの輪なんて許しやしないよ」

「そういう好きじゃねえよ」

 晴香の明るみは関わった人々にまで行き渡っていた。優しい温もりは心ある人々を容易く迎え入れて一度受け入れたのならば離さない、そんな甘すぎる明るすぎると分かっていながらも味わいながら浸っていたい、そう思えるものだった。


 輝きの世界から出て来てからひとつの間を置くことも先ほどの会話に浸ることも許さずに甘菜は天音が抱える女を、眠り続けるぽっちゃりとした柔らかな少女を見つめて言の葉を刻んで擦り込む。

「このままだと天音が戦えない、抱えたままでも命を繋いだままでも」

「それは分かり切ったこと、しかし代わりの方法なんてありゃしないんじゃあないかい」

 天音が反射も同然の速度で投げつけた問いに甘菜はきっちりと答えを塗って返してみせた。

「天音の家、あのアパートの汚い部屋に解決方法が眠ってるわ」

 解決方法は既に見えているのだろうか、天音は思い返し、甘菜の目を見つめては訊ねる。

「まさか」

 心当たりがあるのだろうか、天音の表情には驚きの欠片も現れることなくただ確かめるだけのこと。

「留守番してるあの子を使うわ」

 言葉だけを残して歩き出す。味雲に霧葉、甘菜と眠り続ける晴香、晴香を抱え続ける天音。五人共に向かうそこに答えがあるのだろうか。

「しっかしこんなに人は入れないから」

 五人もの人間を入れ込むには小さな部屋、入らないと言えば嘘になるだろう、しかしながら生活できると言えばそれもまた嘘になる。その程度の狭い部屋だった。

 そんな部屋の床を埋め尽くして五人で上がり込むことすら難しい状態で留める酒瓶たち。この部屋は精神衛生上のことを考えても良質だとは言い難かった。

「元の場所の姉貴の部屋もこんな感じなのか、もしかして」

 味雲がふとこぼしてしまった言葉に天音は返すものもなくただ目を逸らすだけ。

 誤魔化すように前髪をいじり、続けて晴香の頬を揉む仕草は完全に肯定と取って良いものだろう。

「晴香もかわいそうね、整理整頓出来ない数の酒なんか並べちゃって」

 甘菜の言葉に霧葉もまた頷くのみ。

「はあ? 全員揃いも揃って否定ばかり口走るワケかい、ひっどいお話だねえ」

 冗談のつもりなのだろうか。明らかにその顔は笑っていた。

「で、それはそうとしてどうするおつもりかい」

「こうするおつもりだよーん、埃つもりん汚い家さあここに住まいし矢守神、今ここに」

 甘菜の声に答えるように空気に透ける帯が舞う。それはやがて太くなり、尻尾のような形を取り始める。

「何これ」

 霧葉は驚くことしか出来ないでいた。味雲もまた口を開き唖然とする他なかった。

 煙のようにも見える帯はひとつに纏まりある形を取り始めた。二本の脚を持ち、三角形の小さな鼻と数本のヒゲに頭から生えた小刻みに動く耳。

 それは紛れもないネコの顔、後ろ脚は煙の帯となってカタチを持たずに、ネコ自身は宙に浮いたまま天音と晴香の方へと泳ぐように空気中を進んで寄って来た。

「宇歌」

 それは天音の飼いネコ、正しく言えばどこかの依頼先で居場所を失ったネコの霊。元の飼い主には霊の姿など目にすることも叶わずに晴香が引き連れて来て天音が飼うこととなったネコ。今となってはふたりに懐いては鈴のような鳴き声を上げながら天音とじゃれ合うことが多くなっていた。

「アタシの飼いネコオバケに何をさせようって御話かな」

「晴香に取り憑かせてこの子と命を繋ぐ」

 宇歌は鈴のような声を靡かせながら耳を素早く動かし晴香の中へと入って行った。

「それ大丈夫なのか」

「さあ、悪霊でないなら良いんじゃないかしら、わかんなーい」

 味雲に霧葉、悲哀の霊と向き合い続けたふたりにとっては印象が悪いことこの上ない。

 しかしながら今はこの方法に賭けるしかない。そう言い聞かせて甘菜の思うがままに状況が進むことを許していた。

 晴香は小刻みに震え始める。ふるえゆらゆらと。天音の口からそう聞き取ることが出来た。いつの間に晴香を指した冗談を言う余裕を取り戻したことか。それほどまでに飼いネコを信用しているということだろうか。

 晴香の身体に変化が訪れ始めた。頭からはふたつの三角形の耳が生え、尻辺りからひも状のもの、いわゆる尻尾が伸びていた。ゆっくりと波打つように揺れては人々の心を癒すそれがどこまでも愛しかった。

 やがて晴香は、否、それに憑いたネコは目を開き天音に飛びついて頬同士を合わせて愛情を行動に変えていた。

「天音にやっと声が届くにゃ、カワイイのにゃ大好きにゃのにゃ」

 誰もが想像する類い、あまりにも凡俗なネコ姿の人のような話し方に天音はくすりと笑いを雫のような儚さでこぼしながら訊ねる。

「宇歌。これから毎朝バナナでいいかい? 嫌なら『バナナなんて何度も口の中に入れるものじゃない、ミルクを舐めたいな』って懇願なされ」

「ばにゃにゃにゃんてにゃんども口のにゃかに入れるものじゃにゃい、ミルクをにゃめたいにゃ……にゃ」

 終わりがなで終わる頼みは語尾に加える最後の声の発生を遅らせた。宇歌自身も戸惑っているように感じられた。

「いいねめちゃかわいい」

 そんなやり取りを見届けて甘菜は大きなため息をついて言の葉の糸を会話の網目に結び付けて紡ぎだす。

「そんなふざけてる場合かしら、これから脱出するよ」

「ちょっと待った」

 これまで聞かなかった声が響き始めた。それは酒瓶から聞こえているようにしか想えずに誰もが耳を疑い目を凝らす。

 一本の酒瓶が待ってましたと言わんばかりに跳ねて天音に寄って行く。日本酒のような達筆の漢字は読み解く事は出来ず、ラベルの端には葉っぱが挟まれている。おまけに頭にはコルク栓がささっていておかしなことだらけだった。宇歌は身震いしながら睨み付けていた。

「違う動物の匂いがする。イヌ科の臭い私嫌い」

「私って、アンタ……メスなのかい」

 晴香が大して考えることも無しにつけた名前だったものの、性別はものの見事に一致しているというだけの簡単なお話。

 酒瓶が天音に近付いて来ると共に天音はその手を伸ばす。一歩、また一歩、更に一歩。寄って来た瓶の首をつかんで栓を無理やり抜こうとしていた。

「ワインみたいなコルク栓の日本酒だなんてアタシは買った覚えはありやしないね、この付喪神もどき」

 告げると共に葉っぱをラベルから引きはがす。

 その瞬間のことだった。

 煙は舞い、辺りを覆い尽くす。膨らむ煙に宇歌は袖で顔を覆い目を細めて天音に身を寄せる。

「晴香の身体で甘えるな、アタシの天国に永住したくなる」

 言葉では否定してみせるものの確実に腕を回して抱き締めている辺り、見事としか言えない程迄の潔さで誘惑に負けていた。欲望の魔が天音の心の耳に魅惑の呪文を囁き続けていた。

 そんな煙に撒かれた出来事の中、皆が皆それぞれに煙に目を隠している間にも変化は訪れていた。それは煙が晴れた後にすぐさま各々の目に訴えかけていた。

 床に立つその姿、人の身にしながら頭から耳を生やし、全身の毛という毛のその全てが茶色に支配され、顔もまた特徴的な模様を描く茶色に染まっていた。

 目の前にてあくびをしながら佇むその妖は、人と狸を合わせたような姿を持っていた。

「妖怪化け狸にして超絶美人の場岳 キヌ、ここに降臨」

 どこで覚えた語句なのだろうか、天音は呆れを目に宿しながら口を開く。

「どこでそんな言葉を覚えたことやらだね」

「私の日本語の教科書、ジャパニーズマンガ」

 どこからツッコミを入れればいいのか、天音は既に目指すべき反応の地点を見失って言葉も出せないまま立ち尽くすのみ。

「痛々しいイヌ科だにゃ。痛いのは趣味だけにして欲しいのにゃ」

 宇歌の言葉に物も返せぬ痛みを感じてキヌは大きく息を吸う。間を置くこともなく吐き出すものは容赦という言葉を失った言葉だった。

「このキモネコのが痛々しいわ。何がにゃよ、にゃ! 晴香ちゃんの顔でそんな語尾やめてくれる? あと性格天音に似るのもやめて」

「ペットは飼い主に似るのにゃ」

「争いはやめな、アンタらここでは全員味方だから」

 この無益なる争い、無賃戦線を鎮めてくれようとしているのだろうか。キヌは珍しく自身の味方にもついてくれている天音に感謝の想いを込めてその名を呼んだ。

「天音」

「だからさ、晴香より美人はイラつくからイヌ科はお黙り」

「天音……」

 必要以上に責められて。繰り返しその名を呼ぶ声には力が込められていなかった。

 やがて全員足並み揃えて天音の家を後にした。辺りを見回してはすぐさまフラフラと移ろい始める宇歌の肩にキヌの手が置かれた。

「今から本当のお家に帰るからこれ以上余計なとこ行かないで」

「にゃん」

 自由なネコ、どこまでも気まぐれな彼女を引き留めるキヌの姿はこの上なく頼もしく映っていた。

 そんなやり取りをよそ眼に味雲は霧葉に訊ねていた。

「そう言えばその服、なんで着せられたんだ」

 味雲としてはあまり趣味のいい組み合わせだとは思えなかった。本体は殆どが純粋の極みに立ったような黒で、霧葉の白い肌とは対照的。ただあればいいとばかりの仕立てを感じさせるそれは霧葉という美人に着せるにはあまりにも飾りっ気が無い、レース地の短くひらひらとした飾りも飾りのように思えなかった。つまるところ。

「華が足りないんだよな、霧葉が着るには」

「ありがとう、でもさ、ここを壊すために服が汚れたり破れたら嫌じゃない」

 たったのひと言で納得の境地に立たされた。不真面目な部分にせよ真面目な話にせよ、味雲の中ではやはり霧葉は良い影響を手早くもたらしてくれる運命の人と呼ぶに相応しい人物だった。霧葉はひと息置いて結論の言葉を付け加えてみせた。

「そんな破壊活動のための儀式用、礼装みたいなものって勝手に思ってるわ」

 死をもたらす装束、それは儀式用と耳にして思い浮かべるような纏い踊り明かしたり神具や儀礼の用具として用いられる刀や杖にも劣らぬ豪華絢爛という言葉に纏められる印象とは異なったもの。地味なことこの上ない服は味雲にとってあまりにも物足りないものだった。

 抱いている印象をその腕に包み込み続けることなく霧葉と共有してみせた。返される態度は大きな胸の下で腕を組み目を閉じて頷く仕草。霧葉もまた同じことを考えていたのだろうか。

「やっぱ、そうだよな」

「でも良いものほど大事にしたいから戦闘服としてならこんなものでいいわ。寧ろきゃぴきゃぴの魔法使いの女の子とかよりよっぽど」

「それ何キュアだよ」

「月に代わるかもよ」

「いいや、カード集めだね」

「たまねぎたまねぎ」

 誰しもが一致しない印象。ここまで纏まりのないヒーローとはいかがなものだろう。これから相手にするのはあの得体の知れない影の塊、味雲の実家の中に住むあの存在、見れば分かる程の説得力を持った陰の気配そのものだった。

「てか姉貴が創った世界なんだよな、合体ロボみたいな変身ヒーローとか出せないわけか」

「何のことかさっぱりだね」

「ほら、あれあれ、画面の中にいるやつ」

「味雲それ確か外から来てるやつ」

 中途半端な知識だけが集められた会話がこれほどまでに末恐ろしいものだとは、甘菜は奥歯を噛み締めて纏まりなく進みも見られないこの雑談に終止符の一撃を振り下ろす。

「おしゃべり御仕舞い、あなたたちが何のアニメだかマンガだかの話してるか知らないけど今はそんな場合じゃなしでしょ」

「この状況、誰かの敵の服を着てたりだとか個人の結界で別世界とか色々混ざってて完全に何とかユニバース」

 そろそろ進まぬ状況にも飽きてきたのだろうか、日頃から進んでふざけてみせる天音が先頭に立って言葉を浴びせる。

「行くよ、オバサンにはついてけやしないね。ほらオバサンについてらっしゃいな」

 三十代を迎えるかどうか、そんな年齢でオバサンという肩書きを自らに書き加えるこの女の白くて粗末な着物を見るからに日頃から自身に対しては大した飾りも重要視もしていないことが窺えた。

 つい一時間ほど前だろうか、もはやさっき通ったに等しい見慣れた道を逆から辿り、元の場所へと向かって行く。

 道のりはあまりにも平和でこのセカイの裏側におぞましい存在が潜んでいることなど全くもって想像がつかなかった。しかしながらあの景色は間違いなく本物で、これからすぐさま入り込もうとしている場所でもあった。

 ついに運命を進めるドアを目の前に迎えてしまった。これから先悔やんでも跪いても後戻りは許されない。折れた者に突き付けられる現実は間違いなく死の一文字。

 甘菜は言葉も度胸の確認も無しに勢いよくドアを開き全員を押し込んで自らの身をも滑り込ませ、そのドアを閉じた。

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