第36話 訪問@椿姫宅
六月に入って雨の日が増えてきた。そろそろ梅雨入りだろうか。
今日も早朝までしとしとと雨が降っていたらしく、じめっとした空気がワイシャツに張り付いてなんとも気持ちが悪い。
そんな週明けの今日から、うちの高校では三者面談が始まった。
放課後に三者面談の日程が組まれているので、嬉しいことに授業は四限目までで終わりだ。部活のあるやつらはお昼を食べ部活へ、俺のような帰宅部は即刻帰宅するのみだ。
特にすることもないので帰宅しようと教室を出ると、後ろから声が掛かった。
「涼くん!」
「椿姫さん」
慌てたように鞄を胸に抱えて、こちらに駆け寄ってくる椿姫さん。
「どうかしたのか?」
椿姫さんとの勉強会は週一・二回くらいで開催していて、今日は約束の日ではなかったはずだ。
「あ、あの、ええと、」
きょろきょろと辺りを確認しながら、「あの、涼くん。少しこちらに」と言うので、椿姫さんに連れられ、人通りの少ない渡り廊下までやってきた。
「どうしたんだ?こんなところまできて」
と口にしてから思ったが、もしかすると俺と椿姫さんが付き合っていると言う噂を気にして、話すのに人目のつかないところまでわざわざ移動してきたのかもしれない。迷惑掛けちゃったな。
「すみません、わざわざ」
椿姫さんが恐縮そうにしているので、こちらこそ申し訳なくなる。俺のせいで皆に誤解されているのに。
椿姫さんは尚も少し落ち着かなそうにしていて、それでもようやく俺の方へと視線を向けると、ずいっとこちらに身を乗り出してきた。
だからいつもいきなり近いんだよ…。
「あの!涼くん!今日はこれからお暇でしょうか!」
「え…?あ、ああ暇だけど」
「その、良かったら今から
「え?」
「もし涼くんが良かったらなんですけど、う、家で一緒に勉強しませんかっ!?」
椿姫さんの家……。
男女共に人気のある彼女の家にお呼ばれするなんて、その辺の男子なら喉から手が出るほどほしいお誘いだろう。
ついこの前までの俺にとっては、他人の家に行くということは多少なりとも抵抗があった。
澪と一緒に実行した「潔癖症さよなら大作戦」では、見事澪の家にお邪魔することには成功した。今回も同じようにうまくいくだろうか。
しかし今の俺なら、やはり大丈夫なような気がしている。
『他人に触れること』以外は、大分潔癖具合が落ち着いてきたからだ。
俺が返事を渋っていると、椿姫さんは慌てたように付け足す。
「涼くんが綺麗好きなことは承知しています。なので部屋もすっごく綺麗にしておきました!もちろん無理にとは言わないので、本当に良かったら…なんですけど…」
少し尻つぼみになりながらも精一杯言葉を届けてくれる椿姫さん。
椿姫さんも俺が「潔癖症」であることは知ってくれているので、いつもの図書室での勉強会は除菌ボトルなどを用意してくれていた。おそらく彼女のことだから、家にお邪魔した際にもそのような除菌類を用意してくれているだろう。
椿姫さんが嫌でないのなら、お言葉に甘えてみてもいいのだろうか。友人の家に遊びに誘われるって、やっぱり嬉しいことだしな。
「俺なんかがお邪魔していいのか?」
「はい!もちろんです!寧ろ来てほしいというか!」
「来てほしい?」
「あ!えっと、あれです!京都の有名なお店のお抹茶のケーキが手に入ったんです!涼くん、抹茶もの好きでしたよね?勉強がてら一緒に食べませんか?」
抹茶ものは大好物である。京都の有名な抹茶なんて、なかなか食べる機会はないだろう。大変気になる。是非ご相伴に預かりたいところではある。
「椿姫さんがいいなら、お邪魔するよ」
俺の返答に零れんばかりの笑みを浮かべた椿姫さんは、「はい!是非!」と嬉しそうに目を細めた。
俺と椿姫さんの家は反対方向なので、制服のままで申し訳ないがそのまま寄らせてもらうことにした。
俺が自転車を押す横に椿姫さんが並ぶ。
「あ、お邪魔するのに何も手土産を持って来ていないんだが、大丈夫か?」
椿姫さんの家がどんな家か知らないが、きっと割と裕福なご家庭に育ったのではないかと思う。椿姫さんの所作や話し言葉、物の扱いなどからもしやお嬢様なのでは、と思うことが多々ある。そんな家にお邪魔するというのに、手ぶらでいいものだろうか。
「気にしなくて大丈夫です!お友達が来てくれるなんて、滅多にないので家族も喜びます」
「そ、そうか…」
人のことは言えないが、友人の少ないであろう椿姫さんである。もしかしたら両親も心配しているのかもしれない。しかし友人が男子で大丈夫だろうか?安心できるか?
「あ、そうだ」
そこでふと思い出す。俺と付き合っていると噂されてしまっていることを謝らなければならない。
「椿姫さん、」
そう口を開いたところで「おーいっ」と後ろから声がした。
その声は後ろから真横にさーっと通り過ぎていく。
「藤沢っちー、北白河さんー、バイバーイ!」
自転車で駆け抜けていく岬さんだった。
「おー」
「あ、さようなら」
あっという間に走り去って行く岬さんの後ろ姿を見送りながら、椿姫さんは神妙な面持ちでこちらを見てくる。
「…涼くんって、実は友達作りが上手なのですか?」
「いや、そんなわけないだろ」
「岬さんと仲良くなったんですね」
なんだか椿姫さんの声が少し不服そうだ。
「球技大会委員で一緒だからさ。それで少し話すようになっただけ」
言葉の通りではあるのだが、岬さんとは皐月のことで変な約束もしてしまっている。友人、と呼べるかどうかは分からないが、少し砕けた仲になったようには思う。
「そうですか」
椿姫さんが少し拗ねたような声色を出すのは珍しい。彼女も気にせず周りと話せばあっという間に友人がたくさんできると思うのだが、どうやらまだ一歩を踏み出せないようだ。
「ここが、椿姫さんの家、か…?」
なんだかんだお喋りをしながら、気が付けば北白河邸に到着していたようだ。まさに北白河邸、と呼ぶに相応しい和風建築が堂々と目の前に広がっている。
これ、敷地どのくらいあるんだ?
藤沢家も一軒家ではあるが、優に五、六戸入るのではないだろうか。玄関に行くまでに綺麗な庭が覗けた。案の定小さな池もあるじゃないか。
やっぱり椿姫さんって、お嬢様なんじゃないか?
こんなに大きな家に住んでいるのだ。お金がないわけがない。急にそわそわしてきた。玄関を開けたらずらりと、お帰りなさいませお嬢様、とか言うお手伝いさん達がいっぱいいて、お前は椿姫の友人に相応しくない!とか言うお父様が出てきたらと想像して、胃が痛くなってきた…。
「只今帰りました」と言ってガラガラと戸を開ける椿姫さんに隠れるようにして玄関に入る。
とてとてと奥から足音がして、初老のご婦人が現れた。
「お帰りなさいませ」と言いながらこちらにやってきて、俺の存在を認めると目を丸くする。
「友人の藤沢くんです」
椿姫さんの紹介に俺も頭を下げる。
「ふ、藤沢です。えっと、お邪魔します…」
そう挨拶をするとご婦人は「あらあらまぁまぁ!」と目元に皺を集めて優しく笑顔を浮かべた。
「椿姫さんがご友人を連れてらっしゃるなんて!いつ以来かしら」
嬉しそうなご婦人に、椿姫さんは少し恥ずかしそうに「へ、部屋でお勉強するので!」と慌てて玄関を上がる。軽くお辞儀をして俺もそれに倣った。
「すみません、すぐにお茶とケーキを用意してきますね。涼くんは、こちらの部屋でお待ちください。あ、洗面台は突き当りにあります」
そう言って通されたのは、十二畳くらいの和室だった。取り残された俺は、ひとまずその部屋に入って辺りを見回す。
ん?ここ椿姫さんの部屋か?
澪の部屋と違って派手な色がない。勉強机とベッド、中央に折り畳みのテーブルが置いてある。窓際にピアノがあり、その横にヴァイオリンが置かれていた。本棚には教科書や楽譜、小説などが並んでいるようだ。椿姫さんらしい、真面目な部屋だった。
中央のテーブルに手指の除菌液と除菌ウエットティッシュが置いてある。俺のために用意してくれたものだろう。
よく見るとベッド横のサイドテーブルにも小さな消毒液だか除菌液だかが置かれていた。もしかして椿姫さんも日常的によく除菌をしたりするのだろうか?
いかん、女の子の部屋だというのにまじまじと見過ぎた…。
反省しつつ、中央のテーブル前に置かれた座布団へと腰を下ろす。
座っていいんだよな…?
少し不安に思いながらも、手指を消毒して待っていると「お待たせしました」と椿姫さんがお盆を持って入ってきた。
「先程お話していた、京のお抹茶ケーキです!」
熱いお茶が入っている湯呑と一緒に、切り分けられた抹茶のロールケーキが机に並べられる。ほんのりと抹茶の香りがする。
「めちゃめちゃうまそう…」
思わず呟いてしまった言葉に、椿姫さんはにっこりと笑う。
「是非召し上がってください」
「いただきます」と二人で手を合わせて、それぞれケーキをつつく。
「う、うまい…!」
結構クリーム多めな気がしたのだが、さすが本場京都。甘すぎず、かと言って抹茶の苦みがきついこともない。ぺろっと食べられてしまいそうだ。
「喜んでもらえて良かったです!涼くん、抹茶好きだって言ってたから」
「ありがとう、椿姫さん。すごいうまいよ。あ…、俺、椿姫さんに謝りたいことがあって」
先程謝ろうとしたところ、ちょうど岬さんに声を掛けられて話しそびれていた。
「噂のこと、なんだが…」
「噂?ですか?」
きょとんと首を傾げる椿姫さん。彼女の耳には入っていないのだろうか。
本人を目の前にして言うのは相当に照れくさい。しかし、友人としてはちゃんと謝っておいた方がいいだろう。
「俺と椿姫さんが付き合ってる、って噂なんだけど…」
そう口にすると「え!?」と言って彼女は手で口元を抑える。
「俺が椿姫さんに平気で話し掛けていたのを勘違いした奴がいたみたいで、俺と椿姫さんが付き合ってるって噂になってるらしいんだ。大変言いにくいんだが、結構広まっているらしい…」
澪の話によると、楽しんで噂を広めている奴がいそうな感じだった。まぁ噂なんてものは放っておけばそのうち消えていくだろうが、椿姫さんが不快な思いをしていたらと思うと、気が気ではない。
「悪い、嫌な思いをさせて」
頭を下げると、椿姫さんは慌てたように手を振った。
「い、いえいえ嫌な思いなんて!これっぽっちもしていませんので!そんな風に噂されているなんて、知らなかったです…」
優しく謙虚であり、美人でスタイルもいい。勉強もできる。誰もが本当はお近付きになりたいのだ。そんな椿姫さんが目立たないわけがない。俺も軽率に話し掛けすぎたかもしれない。
たまたま仲良くなっただけの俺なんかと噂されても、椿姫さんは何とも思っていないようだった。
「私は、全然気にしてないです。寧ろ涼くんは、私と噂されて嫌じゃなかったですか?」
椿姫さんは少し俯きがちに上目遣いで訊いてくる。
「嫌なわけないだろ。多分男子は誰だって椿姫さんと噂になりたいって思ってるよ」
うちの学校で椿姫さんと釣り合うような男なんているのだろうか?顔だけなら皐月が一番有力候補かもしれないが。
「わ、私もっ!」
「え?ちょ、椿姫さん!?」
椿姫さんのいつも癖が出てしまった。興奮して前のめりになった椿姫さんは俺にぐいっと身を寄せてくる。そのあまりの近さに、俺は驚いて仰け反った。その仰け反った拍子にバランスを崩し、畳に背を預けてしまう。
そんな俺の上に覆い被さる様に椿姫さんの顔が間近にある。
「わ、私は、涼くんと噂されて、嬉しいと思ってます!」
「え…?」
椿姫さんの綺麗な黒髪が、俺の胸の上に流れる。柔らかい花のような香りがする。至近距離で視線が絡み合う。
それは、どういう意味だ…?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます