第26話 温かな希望

「「潔癖症」の克服、止めるよ」

 俺がそう告げると、澪は固まったように動かなくなった。

「……え?」

「やっぱり俺には無理だったんだ。今まで無理に付き合わせて悪かったな。放課後も、部活があるのにわざわざ俺に時間使わせちゃったよな。来週からはもう、気にしなくていいから。…話はそれだけだ」

 言いたいことをとりあえず言い切った俺は、またバナナのパウンドケーキを食べ進める。

 顔を上げるのが、澪の顔を見るのが怖かった。どんな気持ちでいるだろうか。せっかく俺のためを思って提案してくれたというのに、それを頑張れなかった俺を、澪はどう思っているだろうか。

「…ちょっと待ってよ!」

 澪が勢いよく立ち上がると、机が揺れてティーポットがかちゃりと耳障りな音を立てた。カップの中の紅茶が波打つ。

「なんで!?どうして急に止めようなんて言うの!?」

「…悪い」

「だってずっと順調だったじゃん!「潔癖症」克服しようって頑張ってたじゃん!」

「だからごめん」

「どうして?嫌になっちゃった?私が涼のペースも考えないで無理に押しかけたりしたから?私のせい?」

 澪は脱力したようにすとんとまた椅子に腰を下ろす。

「もしかして、…もう私は必要なくなった?椿姫ちゃんに協力してもらえるようになったとか?」

「そうじゃない」

「じゃあなんで?触れるようになったって、除菌も少しずつ減らせてるって、言ってたのに……」

「そうだな…。澪のおかげで、なんだか普通の人になれたような気がして、嬉しかったよ」

 友達とペンの貸し借りをしたり、自分のブレザーを掛けてあげたり、スマホを見せてもらったり、美味しい食べ物を友人とシェアしたり…。

 皆が当たり前のようにしていることを、俺は今までしたことがなくて、それらがこんなにも楽しく、友人達と絆を結んでくれる行為なのだということを俺は知らなかった。澪とチャレンジすることは新鮮なことばかりで、すごく楽しかった。

 まさかその中で澪に対する恋心に気付くことになるとは思わなかったが…。

「澪、今までありがとうな」

 今生の別れという訳ではもちろんない。ただ、これからは一緒に過ごす時間はぐっと減るだろう。澪はもともと友人も多く、部活にだって入っているのだから。今まで通り教室や近所で少し話したり、また時たまゲームのお誘いがあるくらいに戻るだろう。

 ここのところ澪といる時間が長くて楽しくて、暫くは少し寂しいかもな…。

「涼、さっきから全然説明になってないよ…なんで?どうして止めちゃうの?私が涼に何か嫌なことしたならちゃんと言ってよ!直すから!無理に克服ミッションだって進めたりしないから!」

「澪は何も悪くない」

 ただ俺が弱かっただけだ。

少しずつ「潔癖症」を克服できてきていると思っていた。澪が考えてくれたミッションをクリアするうち、自信も付いてきていた。このまま頑張れば、本当に「潔癖症」が克服できるのではないかと、俺自身もそう思っていた。それなのに……。


「もしかしてまだ除菌とかしてるの?」


 そう言って、嘲笑うように俺を見た秋月の表情が脳裏をよぎる。その姿が記憶の中の小学生の頃の彼女に重なる。

 俺は嫌と言う程に理解してしまった。

 そう簡単にトラウマは消えないということ。

 自分自身を変えるということは、難しいということ。

 一歩踏み出してチャレンジしただけでも、俺としては自分を褒めてやりたい。この経験も、きっと無駄ではなかったのだから。

 俺はあれからまた念入りに除菌を始めた。そうするとやっぱりすごくほっとして、何もかも、俺さえも綺麗になった気がして、心が落ち着いた。

 除菌を少しずつ減らさなきゃ、ってことも多少負担になっていたのかもしれない。でも、除菌を減らせていたことにも、俺は満足感を得ていたはずなんだ。

「…なんてことはない。俺の心が弱くて、やっぱり除菌がないと駄目だなって思っちゃっただけなんだ」

 情けないことを言っているのは重々承知だ。こんな情けない俺では、澪に振り向いてもらうどころか、告白することすらできない。

 澪は眉を下げ、悲しそうに俺の話を聞いていた。

「幻滅しただろ?来週からは、そういう訳だから…」

 俺は膝の上に置いていた拳にぎゅっと力を入れた。

 これでいい。これで良かったのだ。俺はきっと今もこれからも変わらない。しかし澪はどうだ?俺と違って、明るく前向きに自分の決めた道を進んでいくのだろう。俺の治るかも分からない「潔癖症」の克服なんかにこれ以上付き合わせて、澪の時間を無駄にしたくはない。

 澪は小さく呟く。

「分かった……」

 澪の承諾の返答に俺はほっと息をつく。

「そうか、良かっ、」

「なんて!言うわけないじゃんっ!!!」

「!?」

 澪は立ち上がると、机に身を乗り出す。

「分かった、じゃあやめようか。なんて、私が言うわけないでしょ!?」

「澪…どうしてそこまで…」

「きっかけが椿姫ちゃんであれ、どんな理由でもよかったの!涼が「潔癖症」を克服したいって言ってくれたことが嬉しかったの」

 澪はそこで言葉を切って、紅茶をぐいっと一気に飲み干した。

「涼は私が仕方なく「潔癖症」の克服に付き合ってたみたいな言い方してたけど、それ全然違うから!私が涼と一緒にいたくて、「潔癖症」の克服を提案したんだもん!」

「…へ?」

 澪の言葉が上手く咀嚼できず、俺は間抜けな声を出す。

 一緒にいたい?どういう意味だ?

「涼を利用したのは私なの!椿姫ちゃんのことばっかり気に掛けて、私には全然振り向いてくれなかった。だったらせめて克服を手伝って、涼に私を女の子として意識してほしかった!ううん、手伝うなんて言い方も本当は烏滸がましいの。私は私のためだけに、この「潔癖症」克服ミッションを考えた。ただ涼と一緒にいたいって、それだけの理由。実際は涼が「潔癖症」を克服できようができまいが正直どっちでもいいの!私にドキドキしてもらえればなんでもよかったの!」

 澪は一気にそこまで捲し立てると、勢いよく頭を下げた。

「ごめんなさい!涼の気持ちも、負担も考えずに嫌な思いをさせて。本当にごめんなさい」

「いや、別に澪は謝る必要なんてないだろ…」

 情報量が多すぎて何が何だか、混乱極まれりなんだが。つまりどういうことだ?澪は俺に構ってほしかったってことか?そうじゃないなら俺のことを……。いやいやそれは虫の良すぎる考えだ。

「澪は俺と椿姫さんが仲良くなって、寂しかったのか?…そういえば皐月がそんなこと言ってたような…。つまりは幼なじみが取られちゃう~みたいな嫉妬か?」

 俺が率直に尋ねると、澪は心底呆れたような気の抜けたような力ない表情を見せた。

「え~…涼、信じられない…。それ本気で言ってる?」

 そう返してしまう気持ちはよく分かる。だが、俺のもう一つの解釈は、絶対にないことなのだ。まさかそんなことがあるはずもないので、考えないようにしているのだ。

「涼…めちゃくちゃ鈍ちんじゃん…昔から知ってたけどさぁ……。

とにかく!私は全然迷惑なんかじゃなかったの!寧ろすごく楽しかった!私を気遣って止めるって言うなら、それこそ迷惑なんだからね!」

 澪の気迫に気圧されて、俺は何も言えなくなる。

 ここまで澪に言わせてしまったのだ。俺も言うしかないだろう。

 澪の目をしっかりと見つめて、俺はゆっくりと切り出した。

「この前、秋月に会ったんだ」

「秋月?」

 澪は誰だっけ…と逡巡してから、はっと目を見開いた。

「秋月 穂乃!?穂乃に会ったの!?いつ!?!?」

 澪も俺の「潔癖症」の原因が彼女であることは、重々承知している。

「校外学習の帰り。たまたま近所で会ったんだ」

 小学校が一緒なのだ。引っ越していないかぎり、同じ学区内なのだから、会うこともあるだろうとは思っていた。今まで会わなかった方が奇跡だったのだ。

「何か話した?あ、思い出したくないよね…ごめん」

「いや、いいんだ。大した話はしていない。それより彼女に会ったせいで、トラウマが蘇ったのか、除菌しないと落ち着かなくなったんだ。家の中にいるのに、手はしつこく洗ってしまうし、やっぱり俺はまだ「潔癖症」も、トラウマも克服できていないんだ、って再認識させられた」

「涼…」

「せっかく澪に協力してもらったのに、情けないだろ?結局振り出しに戻ってしまった。他人に触れたくないし触れられない。他人の物ですらきっと今の俺では触ることができない」

 澪は情けない俺をどう思っているのか、眉間に皺を寄せる。

「俺の「潔癖症」はもう治らないかもしれない。だから、もう克服ミッションにチャレンジするのは止めようと思ったんだ。また順調に上手くいったとして、今回みたいなことがあれば、振り出しに戻る。きっとこれの繰り返しだ」

 だから、と続けようとして、「それでも!」と力強い澪の言葉が被る。

「それでも私は、涼と「潔癖症」の克服を続けたい」

「澪…」

「涼は、諦めようとしてるだけで、本当は「潔癖症」なんてない方がいいって、まだ思ってるんだよね?その気持ちは最初と変わってないんだよね?」

「それは…」

「涼の精神的な負担になるなら、もちろんもうやめる。でも涼は諦めるしかないと思ってるだけで、本当は諦めたくないんだよね!?「潔癖症」、克服したいんだよね?だったら続けてみようよ!私は涼が何回、何十回挫けたって、諦めるって言うまでずっと傍で力になりたい!」

「澪…」

 澪の俺を思う気持ちが真摯に伝わってくる。どうしてこの子はこんなにも強いのだろうか。俺よりも小さく細い身体のどこにこれほどのエネルギーがあるのだろうか。

「はあ…」

 一つ大きなため息が出た。

 結局俺は、いつだってこの強くて可愛い幼なじみがいないと立っていられないのだ。

 彼女が一緒じゃないと、俺は前に進んでいけない。澪はそれだけ、俺の中で大きな存在になっていた。

 澪と一緒に進んだその先で、俺は強くなっているのだろうか。彼女に想いを伝えられるような、強い男になっているのだろうか。

 出来るのだろうか、こんな俺に。また繰り返すんじゃないのか。

 いや、やらなくちゃいけない。

 情けないことばかり言っていられないだろ。澪がこんなにも俺を想って言ってくれているのに。

 澪の力のおかげで気持ちが明るい方へと引っ張られていく。この幼なじみは、つくづくすごいやつだ。

「……諦めたくない。俺は本当は、「潔癖症」なんかに負けたくないんだ」

 心からの気持ちを口にした。

 あの日、天気のいい屋上で、俺達の「潔癖症さよなら大作戦」が始まった時のように。

 その日と同じように、澪は目を細めて優しく俺を包み込むように笑う。

「うん!また一緒に頑張ろう!私と涼なら、絶対にうまくいく!」

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